■学長くんガチョーン. 湯川れい子さん
このコーナー、レジェンド女性が大勢登場してくれます。先日、湯川さんの米寿祝いをしたばかりです。評論家としても作詞家としてもビッグですが、日本の戦後ポップス史にぜんぶ関わってきた、その内実が重たい。引き続き、よろしく。
◆最初の作詞
1975年、涙の太陽。エミー・ジャクソン。
ラジオ関東(ラジオ日本)の洋楽のラジオ番組のアシスタントのエミーの歌がうまいというので、英語で歌詞を書くように言われた。R.H.Rivers(レイコ・ホット・リバース)名義で詞を書いた。70万枚近い大ヒット。
日本のクラウンというレコード会社がちょうどできたとき、そこにいた青山ミチがこの曲を日本語で歌いたいというので日本語詞も書いた。
数年後に安西マリアがデビュー曲で歌ってまたヒットした。
◆作詞家として
Do you knowをフランツ・フリーデル、尾崎紀世彦、日本語カバーを西城秀樹が歌った。60,70年代、作詞家・作曲家はレコード会社の専属契約だった。本当はフリーで英語で歌う人は存在してはいけなかったが、たまたま外で作ったものが大ヒットして、日本のレコード会社がそれを日本語で発売するときに訳詞(オリジナル詞)を書いてほしいといわれ書くようになったのが始まり。
正式に作詞家として作詞してほしいと依頼されたのは1980年、パイオニアのラジカセ「ランナウェイ」のCMソング。それが、ラッツアンドスター(シャネルズ)のデビュー曲となった。100万枚のヒット。
六本木心中は1986年ごろ。
あの頃は女性の演歌の人が天城越えや津軽海峡冬景色など素晴らしい歌を歌っていたが、実際の女はそんなに未練がましくない。尽くすだけ尽くして、この男だめとおもったら振り向かない。なぜこんな歌ばかり女の人は歌うんだろう、とおもったときに作家が全部男性だということに気がついた。男性の作家が書いている限り女はこんな歌ばかり歌う。
そんな中アルバムの中の1曲として好きに書いてください、と曲を先に渡され、シンディー・ローパーへインタビューのためにニューヨークに向かう深夜便の中で六本木心中の日本語詞をはめて書いていった。アラスカ周りのフライト、みんなが寝静まっているときに窓を開けたらオーロラが輝いていた。それを見ながら書いたのを覚えている。
◆音楽評論家のはじまり
1936年生まれ。高校を卒業するのがやっと。実家は下宿を経営していた。大学へ行くことは考えてなかった。
いかに母を一日でも早く安心させるか。母は口を開けば、早くお嫁に行って、女の幸せは結婚だから、と言われ続けていた。
女性の仕事のロールモデルが全くなかった。女優かカフェの女給くらいしかない。初めて女性のモデルが出てきた頃。
そんな時代、自分がなにになれるか分からなかった。新聞の三行広告をみて仕事を探した。そこから独立プロの新人女優にもなった。
そんな中1953,4年くらいに米軍の兵隊が日本に運んできたモダンジャズにズボッとハマった。ジャズを夢中になって聴き始めた。
大橋巨泉や無名時代のサクソフォン渡辺貞夫やピアノ穐吉敏子などが集まる小さな店で、米軍の兵隊が持ってくるニューヨークやシカゴから直送されたモダンジャズを高校2,3のとき30円のコーヒー代を払って通い必死になって聴いていた。
その中から大橋巨泉がメキメキ売れ出してきた。その頃はまだ早稲田の学生。最初は銀座のテネシーやアシベなどジャズ喫茶で日本のバンドが歌うところの司会。ジャズ評論家として出てきたのは1953か4年くらい、レコードのライナーノーツ。ビリー・ホリデイのストレンジ・フルーツ。初めて自分のお小遣いをはたいて買った。
それを読んでこういう仕事もあるんだ、とおもった。
ジャズの専門誌スイングジャーナル、その中に読者論壇というページがあり800字までで投稿すると掲載される。そこに2回ほど投稿し、掲載された。(1959,60年)
ある日、「オメニカカリタシ オデンワコウ」という電報がスイングジャーナルの編集長から届いた。
電話をして新橋の喫茶店に行った。25歳くらいの若い男の人(岩浪洋三)がいた。若い女性である自分を見てすごくびっくりしていた。あなたの投稿にものすごくファンレターが来ているので、本気で書いてみないか、と言われた。聴いている人さえいないのに、ジャズについて書いている女の人はぜひおもしろいから、と。
書かせてください!と言ったのが今の仕事のはじまり。
その後、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが初めて日本に来る(1961年)ことになって、インタビューをいきなりスイングジャーナルの編集長(岩浪洋三)に頼まれた。
◆いまの若い世代におもうこと
どんな時代でもやりたいことに夢中になること。
環境問題、世界の平和・経済問題が唯一の壁。その中でも自分がやりたいことを見つけられたらそれでいい。あるはず。自分にだってある。
◆息子さんの学校・教育
47歳になる息子がいるが、学校にはとても悩んだ。
まず、区立の小学校に入れようとおもい、見学に行ったら、三年生の教室に生徒の名前が成績に合わせて張り出さだされていた。こんなことを小学三年生でやられたら未来がないとおもい、これはやめようとおもった。
先生が質問する前に子どもが質問できるようなところはないかと探した。環境運動で西ドイツへ行った。小さい子に先生がお弁当のゴミは地面に捨てられるか否か全部聞いて捨てさせていた。そういうところを探した。
インターナショナルスクールで、息子は小学1年生で留年した。英語が追いつかなかった。中学1年になるときにも留年しそうになった。サッカーが好きでやっていたが、2年も留年すると身長差が大きくなる。こんなに大きくなってみっともなくて留年できないと、14歳で留学することを選んだ。スイスへ。
見学に行き、ドミトリーもよく、英語もフランス語も学べる。
その後寒くてスポーツもできない、と高校2年のときにアメリカへ転校。
息子へ唯一、英語で食べていこうと思ったら、対等に喧嘩できるくらいにならないとだめだと伝えた。息子はなんとか自分の好きな仕事ができるようになった。
◆学生時代の思い出
良妻賢母を育てるような女子校に行っていた。家庭科で料理を教えるためにアメリカの女の先生が来てくれるのが、唯一生きた英語だった。
フィリピンで戦士した18歳年上の兄が防空壕を作ってくれていた3日間吹いていた口笛の曲がある日、米軍放送FEN(WVTR)から流れてきた。兄に当時そのきれいな歌はなんですか?と聞いたら、僕が作った欲だよといった。なんでその曲が米軍の放送から流れるんだとおもった。中学時代毎日学校から帰ると米軍放送を聴いていた。その曲が聴き取れるようになった。ハリー・ジェイムス オーケストラのスリーピー・ラグーン。それを本気になって調べたのが、スイングジャーナルに投稿する前の、音楽の畑を耕していた時代。徹底的にFENから聴こえてくる曲は全て覚えた。今でも兄の分も生きてきたとおもっている。
◆キミたちへのメッセージ
地球環境的に人類史的に大変な時代になるとおもうが、それでも生きていかないといけない。だとしたら、どうやって楽しく、ないものをわけて、ないものをつくって、増やして、わけあって、新しくつくって増やして、量産していけるかというところに道がある。ビジネスでも楽しいことでも。地面にかじりついてでもなんとか餌を作って楽しくおひさまと一緒に空気を美しくして生きていってほしい。絶対絶対絶対夢があったら叶う。頑張らないで頑張って。
●iU | 学長 |
●京都大学防災研究所 | 研究員 |
●一般社団法人CiP協議会 | 理事長 |
●一般社団法人デジタルサイネージコンソーシアム | 理事長 |
●一般財団法人デジタル政策財団 | 理事 |
●一般社団法人国際公共経済学会 | 会長 |
●一般社団法人デジタルリスク協会 | 理事長 |
●一般社団法人ソーシャルインパクト | 理事長 |
●一般社団法人超教育協会 | 専務理事 |
●CANVAS | 副理事長 |
●日本スタンフォード協会 | 理事 |
●日本ビジネスモデル学会 | 理事 |
●一般社団法人オープン&ビックデータ活用・地方創生推進機構 | 理事 |
●少年ナイフ | 特別顧問 |
●日本eスポーツ連合 | 特別顧問 |
●一般社団法人データ流通推進協議会 | 顧問 |
●一般財団法人大川ドリーム基金 | 評議員 |
●公益財団法人 子ども未来支援財団 | 評議員 |
●「安心ネットづくり」促進協議会 | 代表理事 |
●東京大学先端科学技術研究センター | 身体情報学分野アドバイザー |
●Superhuman Sports Committee | 発起人 |
●理化学研究所 革新知能統合研究センター(AIP) | コーディネーター |
●京丹後市 | 最高デジタル責任者 |
●活力ある地方を創る首長の会 | 特別顧問 |
●デジタル政策フォーラム | 発起人 |
●POP POWER PROJECT(PPP) | 発起人 |
●一般社団法人日本民間放送連盟 ネット・デジタル関連ビジネス研究プロジェクト | 座長 |
●融合研究所 | 主筆 |