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激 ベンチャー  00.10- 日経Web Company
Vol.1  で、何でやりたいの?ネットビジネス   2000.10創刊号
 ネットビジネス?何でやりたいのそんなこと。だってカッコ悪いじゃない。日本のドットコム。アメリカ直輸入ビジネスか、せいぜいゼニもうけなんだもん。田舎のヘルスセンターに出演してる和製ベンチャーズ、って感じ。それより、せっかくネットやるんなら、クリエイティビティとか、元祖ベンチャー魂ど根性なるものを見せてもらいたいな。
 ネットビジネスのダイゴ味は、旧来のモデルひっくり返す点にある。パンクなんだよな。アートなんだよね。アメリカのベンチャー連中もバンド作るノリだしね。何でもアリの世界だから、ハナっからヒエラルキーが崩れてるし。学歴なんて意味ないし。愉快。
 ネットのおかげでビジネスの常識も小気味よく覆されてきた。会社の規模の大きさより、スピードの方が重視されるようになった。資産を持ってるより、持ってない方が身軽でいいなんて思われるようになった。技術や得意先をクローズドに囲い込むより、オープンにして他社とシェアする方がいいなんて思われるようになった。
 でもアメリカもちょっとカッコ悪くなってきた。お客さんつかまえるためにブランドの確立にばかり力入れててね。ベンチャーの命たるR&Dの手を抜いてマーケティングに血道あげたりして。そのへんはアメリカも日本も今年の3月にテトリスみたく株価が崩れて、バブってた分がはじけたからまあいいか。もはや市場は選別と淘汰に入ったね。
 それにここんとこドットコム系は物流とか決済とかリアルのビジネス対応に忙しいし、もともとスーパーとか銀行とかリアルな商売やってきた名門ブランド企業はそろそろIT対応を完成させてドットコム化する。よーいどん、激突。今から始めるヤツは、旧ドットコム系と、ブランド系とを相手にすることになるねえ。クーッ、つらい渡世だぜ。
 だが、気は持ちようだ。ネットは、まだこれからだ。アメリカ商務省はIT産業がGDPの8%を占めるって得意げだけど、残り92%をどうIT化するかがBtoBだろ?全米小売業協会によればBtoCが小売りの売上に占める比率は2%だという。こっちも98%チャンスあるじゃん。日本はもっと未開だぜ。去年あたりやっとITに気づいて始めたって感じだもん。
 だいいちアメリカと日本じゃ形が全然ちがうからな。アメリカはデジタルテレビ失敗してるけど、テレビ使いこなすのは日本のお家芸だし。たぶん日本はテレビが店舗になってくぜ。それに世界に誇るケータイ。ガキやネーチャンが歩きながら片手の親指ブラインドでメールしてる脅威のモバイル大国。悪いけどアメリカは当分おいつけない。チャンスチャンス。
 で、も一回きくけど、何でやりたいの?たとえば、ギターやりてえ、ってヤツは食えないの知っててもギターって道具が好きだから止めたってやっちゃうわけだ。ネットも同じだね、親が止めようが恋人が泣こうが、ネットが好きだからやっちゃう、っていうバカさが参加資格だと思うよ。
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Vol.2  飛ばしてナンボのネットビジネス   2000.11号
 オープンでなきゃいかん。密室でものごとを決め手はいかん。料亭政治はいかん。政治家や役人がそんなところで大切なことを相談しちゃいかん。民のカネつかって暗闇でさかずき交換したりしてはいかん。ムフフおぬしもワルよのう、とか言っちゃいかん。
 実はホントに大事なことってのはオープンでは決まらない、一人の心の奥底か、ひそひそ話か、そのどっちかで決まる。でも、それがイカンちゅうのも一理ある。クリーンでオープンになった方がぼくらにはやりやすいしね。チャンスも増えるし、オヤジの機嫌とりみたいなムダなことしなくて済むし。
 ただ、そういうムダがなくなっちゃうってことは、実に問題だ。宴席がなくなって、芸者さんやタイコモチの仕事があがったりになる。脂が落ちてスカスカな夜になるということだ。そういう隠微な世界はムダなゼニで成り立ってきた。夜に限らず、昼も朝も、日本文化は、民に漂流するムダなゼニに支えられてきた。そもそも文化はムダが生む。
 おすもうさんも絵師も、そういうことに目のない旦那さんが、泣いて止める番頭や奥さんの言うことも聞かず、ごしゅうぎや、ごっつぁんです、で回してきた。ゲームやアニメに代表される世界に冠たる現代日本の文化は、支配者階層や貴族ではなく、商人がパトロンとなって培われてきた民衆文化が花開いたものだ。
 ところが戦後、経済成長とともに企業の大規模化が進んで、創業者は減り、サラリーマン社長ばかりになった。バカバカしいことにザブザブとカネを流し込む剛毅なお大尽が少なくなった。これは日本文化にとって本質的な危機である。ベンチャー企業はなくてもいいが、オーナー社長を増やさないといけない。
 会社のためにならないムダなことをすると投資家に叱られるからな。って分別くさいこと言ってんじゃねえよ。アメリカ式の経営は、すぐ会社は株主のためとか言う。経営者や労働者の所有物じゃない、はきちがえるな、とか言う。それですぐ尻込みしてしまう。
 でもぼくは、会社ってのは、創ろうと思う人のエネルギーが組織になったものだと思う。創業者兼株主兼経営者が思いどおりにフルスイングする、という原始的な形が理想だと思う。何しようがワシの勝手やないか!のために生まれてくるものなんだと思う。パッションのかたまりなんだよね本来。
 ベンチャーは、経済を再生する。らしい。よくそう聞く。だがそれは、単なる思いこみで、同じ仕事を大企業がやればもっと激しく再生するとぼくは思う。ニッポン経済の再生役なんか引き受けさせられたらいい迷惑なんじゃなかろうかホントのベンチャーは。だらしない世の中を豊かにしてるヒマあったらオレが豊かになりたいのがベンチャーなんじゃなかろうか。
 ただ、フルスイングするベンチャー魂がたくさん出てくれば、それ自体、元気で楽しい。その元気をザブザブばらまいて、文化を保ってもらいたい。ぼくはあなた方の活躍を、経済の担い手というより、文化の旗手として期待する。
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Vol.3  ジャッジはいらない!スポ魂ベンチャー  2000. 12号
 アメリカでは、NBCがシドニー五輪の放映権に7億ドルもかけたから、CM料かせぐためにぜんぶ録画でプライムタイムに放映した。インターネット中継もできないように仕組まれた。でも本番とオンエアの間に半日もあるんだから結果はネットで知っている。
 アトランタ五輪では優に20%を超えていた視聴率が、今回は平均13%台だったという。インターネットを侮ったテレビの惨敗。クローズドな著作権での囲い込みというテレビ的なものの敗退。シドニーは最後のテレビ五輪だ。アテネからはインターネット五輪だ。
 アメリカのメダル数は金39個、計97個、ダントツ世界一だ。メダル数は国力を明示する。経済、文化、人口、政治力、気合い、などを総合した力。今回の上位10か国は、米露中豪独仏伊キューバ韓英。日本は15位。そんなところでしょう。
 国旗や国歌をかけて闘うというのは、オリンピックやボクシングのタイトルマッチぐらいだ。物流やネットで国境がなくなり、産業はボーダレスとなり、通貨も統合され、仮にいずれ国際紛争も減少すれば、国家が存在することを確認できる場は稀になる。
 高橋尚子が走る。しかし私はその映像を見ることができない。これから行われる試合、アメリカのテレビ放映は明朝なのだが、その時刻に私は飛行機の上だ。そこで日本の新聞社のサイトにアクセスすると、文字でライブ中継をしてくれていた。ああニッポン女性が世界を引っ張っている。
 だから親戚に国際電話をかけて、受話器をテレビの前に置いてもらった。日本のテレビの実況が伝わってきた。回線のせいか、音がとぎれとぎれだが、異様に興奮する。36年のベルリンオリンピック、前畑がんばれ、を追体験した。
 その前畑さんは五輪本番前、金を取れなければ身を投げる覚悟をしていたという。世界で戦うというのはそういうことなのだろう。そういう中で金メダル取った人は一生あそんで暮らせるようにしてあげたい。世界で戦うこともなく左ウチワの人ゴマンといるが、そこから回してあげたい。
 今回、シンクロや体操や柔道をめぐって、審査員の採点や審判の判断が物議をかもした。体操のように試合を見た後スグ結果がわからず採点を待つ種目、つまりコンクール系を、陸上や水泳のように客観判断できるものと同じ土俵で扱うからそうなる。エンタテイメントとしては一級だが、競技としては大食い選手権の方が上だと思う。
 柔道もジャッジが試合の全てを握る。選手でも観客でもない審判に結果を委ねてしまう。構造的な欠陥だ。誰か権威のある偉い人の裁断を待つなんて、非インターネット的、非パンク的、反ベンチャー的ではないか。プレイヤーと市場以外の、官僚に聞かないと、勝ち負けがわからないシステムなんだよ。
 これは絶対的な神を受け入れる欧米人にふさわしいシステムだ。その点、大相撲の指し違えは大変な制度だ。行司の下した判断に土俵下から文句つけて、協議してくつがえしたりする。権威が分散していて、公正。高度な統治システムである。それよか、審判に殴る蹴るの暴行を加えたりする日本のプロ野球の方が、権威なんぼのもんじゃい的でネット的かなあ。
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Vol.4 ちゃんとベンチャー、汗かけ汗!  2001. 1号
 アメリカ大統領選は、とんでもない激戦だった。半分の支持しかない大統領が誕生するのは不安だが、この国特有の独立心を有権者が真剣に一票に込めた結果だ。
 アメリカ独立の地、ボストンにもネット系のベンチャー企業がたくさんある。ケータイを手に持たずに使える画期的なハンドヘルド装置をボストンのベンチャーが開発し、今なら9.89ドルだというメールが近所の台湾人から届いた。写真もあるというので、見たら、いかつい男がゴムバンドを頭に巻いて、ケータイをはさんで耳にくっつけてるのだった。やられた。ウェアラブル・ジョークだな。
 そいつからそのゴムバンドを9.89ドル払わず譲り受けたがケータイは持たず、ノートPCを持って、大統領選に沸くワシントンDCに出張した。機内で配られた食事はナマのニンジンであった。周りに座っているビジネスマンたちは、ニンジンをかじりながらノートPCでお仕事をしている。
 私もと思いPCを開けようとしたとたん、壊れた。アメリカのケータイで日本語メールできればノートPCは捨てるのだが。いや、これは、飛行機で仕事しようなどというさもしい根性に対する戒めか?それとも、日本人をビジネス界に入れまいとするアメリカの参入障壁か?
 そんなこと言ってちゃダメだ。アメリカ人であれ日本人であれ、さっそうとネットビジネスしている風情でも、ちゃんと仕事してる人は泥臭く汗かいて努力している。ニンジンかじって寸暇を惜しんでPCたたいて悩んで頭さげて靴の底へらしているのだ。
 高度成長期の終わりに読んだマンガに、出前持ちの修行している若者が、今はしがない出前持ちだが、修行して、修行して、いつかきっと、日本一の出前持ちになるぞ!ドドーン、というシーンがあって、それが妙に頭にこびりついている。そのころから、根性で働くことがなんだかカッコ悪いという風潮が広がってきたように思えるが、実は今も結局、汗が基本なんだろう。
 根性に欠ける私はニンジンはさておいて機内誌をみた。ドットコム系の職員がネット株価の低迷に失望して、働きすぎ訴訟を起こしているという。ストックオプションでIPOでミリオネアーで悠々自適で、その夢のためデートも睡眠もなく働いてきたのに、IPOも悠々自適もバブルと消えて、青春を返せということらしい。気持ちはわかるが、よく訴訟を起こす連中だ。
 アメリカ中そうなのかどうか知らないが、私の住むコミュニティは、学校でも放課後も、先生や親の保護が行き届いていて、子供がケンカしないようにしないように気が配られている。不必要なケンカが多いのは確かだが、そういうコミュニケーションをやたら避けて成長すると、対立を自分で解決する能力がつかず、だから裁判に解決を委ねてしまうんじゃなかろうか。日本もそういう方向に進むんだろうか。汗かけ汗。
 などとブツブツ思いつつワシントンに着陸した瞬間のことだ。周りでニンジンかじってPCしていたビジネスマンの全員が、待ってましたとばかり一斉に、ポケットからカバンから、ケータイを取り出してしゃべり始めた。ビジネスには一刻の猶予もないのだな。この寒空に汗かいて飛び出して行くんだな。このエコノミックアニマルめ。ケータイしばるゴムバンド貸してやろうか。
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Vol.5 捨ててナンボのeベンチャー  2001. 2号
 朝からメール削除する作業を続けてます。チラリと一瞥して捨てるのもあれば、読みもせず消すのもあります。溜まる以上の速度で捨てていかないと、メーラーが収拾つかなくなります。日課です。ところが私は、本を捨てるのは苦手です。どんなに下らない書物でも、ゴミ箱に入れるのは罪悪感で躊躇します。いくら溜まって座る場所がなくなっても、知識に囲まれていくようで心地よい。
 メールと書物とで情報を差別しているのでしょうか私は。本に代表されるリアル空間と、メールに代表されるサイバー空間との同居に揺れる私。まとまった知識を囲い込もうとするクセがまだ抜けないということですかね。私は、知識を総覧していないと不安な世代です。ある歌を聴けば、そのアーティストが音楽シーンのどういうポジションにいるのかが気になるタチです。全体を把握してから、部分を押さえる。
 でも、ネットの世代は違います。断片情報でかまわない。この歌がスキ、それでいい。だいいち情報があふれて、もう総覧などできない。だから囲い込まない。それよりも捨てることの方が大事。それらの情報は、関連づけさえされていれば十分。自分で知識を持つよりも、ネット上のどこにあるのか、その場所さえ分かっていればいい。全体より部分。ヒエラルキーよりリンク。どんどん流れゆく状況の上を泳いでいける資質です。
 抱え込み派は、ネットを道と考えます。コンテンツを運ぶ道路。でもリンク派は、広場と考えます。知恵や感性を共有し、いっしょに作り上げていくコミュニティです。空間を消費するだけか、空間に参加するかの違いと言ってもいい。本質的な違いです。自分、という断片的なコンテンツを持参することが広場の参加資格になってきます。
 この流れはビジネスにも及びます。自分の強みを活かしたコンパクトな企業が、他の会社とリンクを張りながら進めるビジネスが競争力を発揮しています。一種のビジネスコミュニティを作って参戦していくわけです。特殊な技術を持っているとか、デザイン能力を持っているとか、カネだけはたくさんあるとか、なにか一つそういう得意分野を持っていることが、そのコミュニティへの参加資格です。片や抱え込みタイプの大企業はいま、過去の資産を捨てきれず、持てる者の弱みにさいなまれています。
 ベンチャーは、持てる者が築いたモデルをひっくり返すことが醍醐味です。新しいビジネスモデルで市場を変えてしまうこと。そうでなければニッチ商売しかない。同じ商売なら、大企業やその子会社がやった方が強力だし安心です。ベンチャーの面白さは、彼らがビビってしまうようなモデル変更をフルスイングで実施するところでしょう。
 旧来の会社が躊躇している今のタイムラグはチャンスです。ただ、一発勝負ではこころもとない。持続が必要。ベンチャーが持続する要件は、ひっくり返し続けるエネルギーを社内に組み込んでいることですね。ハイテク企業なら、R&Dへの投資と、新技術をビジネスに組み込むメカニズムということでしょうか。
 さてそんなことより、私は部屋の本を片づけることにしますので失礼。
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Vol.6 口笛を吹きながらIT動乱   2001. 3号
 いま元旦の明け方、真夏のブエノスアイレスから北へ向かう機内におります。ニューヨークに向かう便が大雪で欠航、ひとまずマイアミを目指しますが、空が著しく混乱していて、次の展開が読めません。不穏な新世紀の始まりです。あちこち怪しく出没して正体不明になるのが私の目標なので、波乱は望むところですが、乗り切るには気合いが要ります。押忍。
 2000年は実に波乱の時期でした。バブルがはじけて、Nasdaqは半値になって、つぶれた130社の75%がB2Cで、その多くがR&Dよりプロモーション頼りの商売で、逆に老舗の小売業がデジタルの巨人として躍りでて・・・
 でもこれらは、1年前に予測していたことばかりです。既定路線をたどっただけです。問題はこれから。ネットが全産業に定着したあとの、本番のビジネスをどう進めるか。いよいよ見通しがきかなくなってきました。
 ビジネスだけじゃない。暮らしや文化や表現がネットでどう広がるか。やっと、熱病から醒めて、そういう正気でフツーの会話ができるようになってきたわけです。今のゴタゴタは、これから始まる千年の、ほんの入口の小さな調整局面です。
 ところが、株価の下落に失望し、「もうIT革命は終わりだ」などと叫ぶ人もいます。よろしい。産業や商売の改善ていどにITを落とし込もうとするエセIT屋の言葉を正しいと思うキミ、とっととこの場から退場して頂きたい。
 1985年、阪神タイガースが優勝した際、エセ阪神ファンが増えて、真正ファンはイライラしたものですが、1年たったらエセの姿は失せ、静かで自虐的な阪神ファンの世界に戻りました。ITもそうなるのかな。いや、これは例が不吉ですな。
 別の例。15世紀にグーテンベルクが活版印刷を発明した結果、聖書ができて宗教改革が起きてドイツ語が整って近代国家が生まれたといいます。文字が普及して黙読が定着して内面を見つめるようになって資本主義が生まれたといいます。そんなことはグーさんも当時の人々も想像のはるか枠外だったでしょう。ITもそうなんじゃないかな。
 これからITが産み出していく地平を、おそらく私たちはほんの少しも想像できていない。だから面白い。その誕生の瞬間に、偶然にも身を置いて、それを体験できるわけです。なんと幸運なことでしょう。私たちだけで、こっそり味わうことにしましょうよ。
 いわば動乱です。動乱には、したたかで、しなやかな人が強い。無頼というやつです。独立しているが孤立していない人といいますか。ネット的な人といいますか。それは多分、アメリカでも日本でもなくて、欧州やアジアや南米の国々が知っている感覚だと思うんです。
 アルゼンチンは自国の通貨と米ドルとを完全連動させてしまいました。いわば国家の放棄ともいえるようなことを口笛を吹くようにやっちゃう。そういう伸び伸び個人技の生き方、真似るのは危険ですけど、何が起きるかわからない時代には、けっこうカッコいいかも。押忍。
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Vol.7 ベンチャーが学問になったらお終まいです    2001.4号
 高校や大学が荒れているといいます。騒がしくて授業にならないそうです。日本の話です。義務教育じゃないんだから辞めるなり辞めさせるなりすればいいのに。まあいいけど。そういう無駄な時間の過ごし方をする人に用はありませんから。
 私のネット系の友人も学校の勉強が嫌いだった連中が多くて、その年ごろにはもうデジタルに忙しくて、だからたいていは大学や高校をまともに出てません。そんな人たちがこのシーンを引っ張っています。私も大学の授業というものに出たことがなく、気がつけば卒業していたんですが、それで大学に勤務してるんだから犯罪的ですけど、逆に連中の前では大学なんか出たやつということで肩身が狭い。
 で最近、荒れていた授業が静かになったそうですね。私語が減ったと聞きます。ケータイ親指メールがおしゃべりに取って変わったらしくて。教室に肉体が集まりながら、それぞれケータイで外に出かけてしまっているわけです。教室は屍の置き場です。完璧な崩壊であります。
 ガングロの ために生まれた ような顔。という川柳を読んだことがあります。そんな顔の、本物のガングロを見ました。先日。ニューヨークのオモチャ屋で。観光ガングロですな。雑多な人種の交差点で出くわすニッポンのガングロはそれだけでキョーレツにヘンですが、増して違和感があったのは、ニッポンのケータイが使えないせいか、カノジョ丸腰だったんです。ケータイを持たないガングロは、精神の逃げ場を失って、こっちへ攻めてきそうに見えます。
 アメリカの大学生はしゃにむに勉強しますが、ビジネススクールの方に聞くと、過熱ぎみだったeビジネスコースの人気が落ちているそうです。かわりにコンサルティングのコースへの希望がが急増しているそうです。
 バブルこなごなですからね。学生は柔軟でシビアだとビジネススクールの教授は言います。でも、ちょっと違うんじゃないか。大切なのは不確かな時代を見極める目を養うことでしょ。ビジネスやコンサルのノウハウを習うのはその補足でしょ。短期的な商売の浮き沈みで進路や生きざまが振れる人たちって、結局のところ何を習ってもダメなんじゃないですか違いますか。
 学問や学会という世界に疎い私です。そんな私が日本にできたビジネスモデル学会の理事を引き受けました。挑戦的だと思ったからです。パンクだからです。ビジネスモデルと学会という概念が論理矛盾してると思ったからです。
 第一、ビジネスという秘め事のクローズドな世界と、学会というオープンな世界とがどう折り合いをつけるのか。第二、デジタルのビジネスは、学会が頭で考える頃にはもう誰かが下半身で実践して決着がついています。第三、仮に後追いで学問がモデル体系を作ったとしても、ベンチャーは旧モデルをひっくり返すことに意義があり、できあがった体系は、ひっくり返されることが存在意義となります。
 そういうことをひっくるめて、学会が成り立つのか、そこにチャレンジする学会、というわけです。学問だってビジネスのみなさんのようにチャレンジしなきゃね。
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Vol.8 ルーブルのカフェで考えたこと   2001.5号
 ルーブル美術館のカフェです。OECDの前川氏とワインです。彼も私と同様、むかしパンクだったんですがベースを捨てて農水省に入り、国民に米を食わせるためテレビCMにサブリミナルで炊きたてごはん映像を挿入できないものか悩んだり、そのうちバイオ官僚の一人者としてパリに流れ、もっとパンクな人になってます。
 欧州は狂牛病で混乱しています。店に置いてある肉がいつどこで取れたものなのか、その流通経路や生まれ育ちを鑑識して保証してやる必要があります。さらに、その牛がいつどんなエサを食べたか、その連鎖もトレースする必要が出てきているといいます。
 すると、エサの穀物をみなコード化してデータベース化してネット化する必要があるな。そいつは難業だ。だいいち穀物大国アメリカが猛反対しそうだ。だけど愉快。エサも肉もオレも、みなネットでリンクされてループするんだ。オレの食べた豚の食べたトウモロコシの肥やしとなった糞をした牛を食べたオレだぜえ。
 諌めるように前川氏が言います。結局、テクノロジーに安全を委ねるには限界がある。安全は自分で守るものだ。スーパーの表示を安心できるようにするのもいいが、もういちど、食べ物のニオイをかいで、大丈夫かどうか判断できる肉体を取り戻すしかない。
 私のいる研究所でも、臭いセンサーをPCにくっつけたり、チップ埋め込みカプセルを人に飲ませて体温データ飛ばしたりする研究をしてますが、暮らしの安全に耐えるレベルまで技術を高めるのは大変です。それにしても飲むカプセルPCって洗って何度も使うのかしらん。
 フランスにしろアメリカにしろ、電話代や電気代の支払いは小切手が主流です。自動引落しは便利に見えますが、自分が使った分を先に銀行がカネ抜き取って、結果だけ知らされるという仕組みです。でも欧米人は銀行のコンピュータを信用していないから、まずは自分でチェックして小切手で支払うのです。自己管理で、自己防衛です。
 日本はその点、システムの安全度や信頼度が高いから、安心ではありますが、その分コストがかかってます。ただ恐らく、この種のグローバル化は、外から内に入ってくる度合いが高いですから、日本も自分の身を自分で守るクセをつけていく必要がありそうです。
 しかしまあ、金融はともかく、牛や穀物までデジタルでユビキタスになっていくってのは壮観ですな。いかに安全で安価にデジタルを染み込ませていくかが課題。早くITを紙やペンのように日用品化させて、当たり前の存在にしていかなければいけません。
 IT産業は景気のエンジンとして期待されてはいますけど、インフラが経済を牽引するのは過渡期。かつて経済の主役の座は、電力や鉄から、それを使った付加価値産業、自動車や家電のようなものに移していったわけですが、ITも同様です。ITという道具をどうタダに近づけて、それを使ったサービスやコンテンツをどう生み出していくかが政策課題です。IT産業から、産業のITへ、ということでしょう。
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Vol.9 インターネット迷宮伝説   2001.6号
 クモの巣のように入り組んだ路地の市場にいます。モロッコのフェズという町です。9世紀の都です。モロッコの京都です。クルマも通れない窮屈な迷路を埋める雑多な商店。行き交うアラブ人やベルベル人やロバの喧騒。そこに住む人々が千年前から築いてきたイスラムのたたずまい。
 東洋人が珍しいのか、幼い子供たちが私を指さして、シャッキシャン、シャッキシャンと喜んでいます。ツクツクボウシの鳴きまねだろうか。違います。ジャッキー・チェンのフランス読みなのですね。香港映画の国際パワーに出くわしました。
 もう少し年上の男の子に出会うと、私に向かって「ナカタナカタ」と声をかけます。ヒグラシの鳴きまねだろうか。違います。日本がイタリアに輸出したサッカーの高級品です。衛星を通じてここまで名声がとどろいているのです。
 しかしアジアのチャンピオンはポケモンです。路地の売店ではみなポケモングッズを置いています。ピカチュウの手描きの絵も飾ってあります。ヨーロッパの田舎でも南米でも見られる光景です。
 そして、ピカチュウがシャッキシャンやナカタナカタと格が違うのは、ピカチュウはモロッコのものだという点です。彼はすっかりモロッコに同化していて、子供たちは日本からの輸入品とは思っていません。さきごろ、サウジアラビアのイスラム法の最高権威者がポケモン禁止令を発令しました。ピカチュウがイスラムを脅かすという心配は深刻なのでしょう。
 この心配は、私の住むボストンでも2年前に見られました。風紀の乱れを懸念して、小学校がポケモンカードを禁じたのです。私は特段ポケモンを好きではありませんが、日本文化を狙い撃ちにした弾圧は問題ありと独り発言していたせいか、近所のガキどもが一目置くようになりました。
 カタカナを教えてくれと言い寄る彼らと話すうち気がつきました。アメリカの子供たちは、ポケモンのおかげで、ニッポンをカッコイイと思っている。日本政府が数兆円の文化予算を費やしても、ニッポンをカッコイイと思わせるのはムリだろう。ピカチュウに文化勲章か国民栄誉賞を授けるべきだ。
 ボストンに関して言えば、小澤征爾さんもそうです。小澤さんはボストンの顔として定着しています。ボストンレッドソックスに移籍したとたんノーヒット・ノーランを達成した野茂英雄さんも、そうなってくれるかもしれません。
 異界からやってきて、コミュニティに溶け込むには、強烈なパワーとしなやかさが必要です。
それは一方、コミュニティの方にも、オープンさと許容度が要ります。世界のどの都市も、外からのパワーを自らの血肉にして発達してきています。これから無数に誕生するネットのコミュニティも、貪欲なオープンさを原動力にしていくのでしょう。
 でも、この北アフリカのラビリンスはどうでしょう。衛星やインターネットから流れてくる最先端の情報は、千年も変わらぬ頑固な営みを変えていくのでしょうか。それとも、千年かけてできあがった秩序は、近代文明をも同化させてしまうのでしょうか。あるいは、インターネットも千年たてば、この迷路のようなサイバー社会になっているということなのでしょうか。
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Vol.10 2001.7月号
 ダブリンです。ギネスのビール工場の跡地です。濃いアイルランド文化を吸って蓄積したレンガの建物です。ここにメディアラボ・ヨーロッパができたので、遊びに来ています。できたと言っても、昨年7月スタートで、まだ建設の途中です。ITに熱心なアイルランド政府との提携によるもので、技術とアートの欧州拠点となることを目指します。デジタルの起業家も育てていきます。
 アジアにもメディアラボができそうです。インド政府が資金を用意して誘致を図っているからです。技術とアートの融合というメディアラボのスピリットに立脚して、IT教育やデジタルデバイドにも光を当てた面白いラボができるでしょう。濃い国ですから。
 しかし日本をスッ飛ばしてインドというのもちょっとくやしい。技術とアートの融合ってのは、日本が世界に教えてやんなきゃいけないものなのに。というわけで、関西に作った子供センター「CAMP」では、日本の子供たちに、技術やアートを世界に示してもらいたいと思ってます。
 もちろんCAMPにはMITメディアラボが全面協力するんですが、近所には日本が世界に誇る技術とアートの研究所「ATR」もあります。京都には大学もハイテク企業もたくさんあります。深くて濃い文化があります。こちとらアメリカなんて影も形もなかったころから都してたんだぜ。
 CAMPをオープンしたとき満開の桜の下で考えました。世界をギャフンと言わせる表現って何だろう。ゲーム?アニメ?マンガ?当たり前っぽいな。茶?華?あり得るな。そうだマンザイがあるじゃないか。ボケてツッコんでドツいて笑わせる表現はニッポンだ。
 思い立って大阪、吉本興業の木村政雄専務を訪ねました。お久しぶりです、どつくコミュニケーションが世界に通じるのか、子供にワークショップやらせたいと考えます。それにしてもキミなんで役人やめたんや。いやー、こんなことしたかったからですわ。
 ダブリンの繁華街をうろつく。マンガショップに入ってみました。日本のマンガがあふれています。部長・島耕作をむさぼり読むアイルランド人。うれしいけど、この場所に似つかわしくないなあ。
 アイルランドの子供たちはいい本を作ります。アークという子供博物館で、本づくりワークショップを展開しているのですが、その成果物の風味と色合いの豊かなこと。で、CAMPはアークと提携し、本づくりワークショップを導入することにしました。ノウハウをもらって、ニッポンならではの本を作って、オンラインでダブリンと見せっこするんです。
 そういうのはロンドンの子供博物館ともやろうと思ってます。音楽とファッションのワークショップ。そっちはパンク作れ、こっちは西陣でいくど、みたいな。
 路上で若者がU2の曲を歌っています。なるほど、この場所に似つかわしいな。ボクはそうだな、頭の中でエンヤの曲を流しながら、もうしばらくダブリンをねり歩くことにしましょう。
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Vol.11 2001.7月号
 朝から工事の音がうるさい。ボストンは工事ばかりです。道路をまるごと地下に埋めるとかで、ずっとドカンドカンしてます。それだけでなく、光ファイバーを敷設する工事も盛んで、掘ったり埋めたりしてるようです。
 景気がかげってきたとはいえ、まだアメリカは元気です。ドカンドカンという音の向こうで立ち昇る砂けむりをながめていると、まるで高度成長期の日本のようです。昭和三〇年代の邦画を見るようです。あのころ、どこにキャメラを向けても、ギラついたエネルギーで町が美しく躍動していて、むやみな自信がそのまま絵になったものです。
 そのころ生まれた日本人が今ボストンで活躍しています。ボストン美術館では村上隆さんのポップで美しい作品が日本画のコーナーをドーンと占拠しています。子供たちが車座になって懸命に模写しています。正しいなあ。
 レッドソックスの先発の二本柱が日本人です。そう、野茂さんと大家さんです。友人が言います。ヘイ、イチヤ、こんどレッドソックスに入ったノモってのはいいピッチャーでな、来たとたんにノーヒット・ノーランやったんだぞ、知ってるか?うーむ、知ってるってことを示すために、古巣の新日鉄のCMに出ていた彼の美しい肉体ビデオ見せてやりたい。
 もう既に野茂さんはアメリカ人になっちゃったんだな。どの国から来ても、活躍したとたんにアメリカ人になるからなこの国は。ボストン交響楽団の小澤征爾さんはボストンの顔だし。レッドソックスのエース、マルチネスさんはドミニカ出身だけどボストンのヒーローだし。
 三月にWBAヘビー級をホリフィールドさんから奪取したジョン・ルイスさんは、プエルトリコ出身で、ラテンアメリカ初のヘビー級チャンピオンです。だが彼もボストンで育ったので、すっかり地元のヒーローなのです。
 ラテンアメリカのボクサーと言えば、王者から転じて全てを捨てて母国ニカラグアの戦地に赴いた天才アルゲリョさんがいます。二〇年前にアメリカで活躍した中軽量級のスターです。美しい、高級なボクシングでした。
 その後どうしているのかと思っていたら、日本のテレビでみかけました。WBAライト級の畑山-リック吉村戦のジャッジ席にいたのです。ああ丁重に扱ってあげて下さい。
 リック吉村さんは日本のジムにいる米国軍人です。ドローで、王座は成りませんでしたが、美しい試合をしました。彼は日本人になれるでしょうか。
 日本を追われたヤクザのヤマモトは、ロサンゼルスで暴れます。北野武さんの作品、ブラザーです。そこでもまた、ヒスパニック系が大切な働きをしています。地べたを這うような暮らしと、血で血を洗う抗争。その登場人物たちは、現地に同化せず自分のコミュニティを築く異人ですが、それをも飲み込んでいくのがアメリカなのでしょう。アメリカは、その一点で美しいと思います。
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