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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第24話  2001年1月号
■グありとグなし、どっち

 起きぬけにパソコンをつける。茶をいれる。メーラーを立ち上げる。茶を飲む。ぞっとするほどたくさんのメールが届いている。ああ今日も。ボストンと日本とではまる半日の時差がある。寝ている間、日本は生きている。こっちが起きると日本の一日がメールとなって溜まっている。こっちが仕事を始めると、そっちが寝入る。
 ここしばらく送信を要するメールが日に50通近く。これを5分平均でさばいたとしても、4時間はかかる。ウェブで調べものしたり、原稿書いたり、ホームページ(www.ichiya.org)の更新をしたりしながら、メールの面倒をみていると、終わった頃にはそっちが起きる。朝書いたメールの返事が夜こっちに届き始めたりすると、果てしない罠にかかった気がして、体の芯からぞっとする。
 人と話をしていると、思いがけないことをしゃべっている自分に気づくことがある。じっくり考えても思いつかないようなアイディアが、人と軽くしゃべっている瞬間に、相手を鏡にして、自分の中に沸き上がることがある。
 書く、という行為にも同じようなことがある。独り考えていても思いつかないのに、書き始めると、指の先から勝手に考えが涌いてくることが稀にある。パソコンや紙やペンが鏡となって、私を引き出す。メディア、である。
 こうして一日じゅう無言で仕事をしていることが多い。黙って書いていても、メールやチャットで議論したり笑ったり怒ったりしている。メディア相手に自分と会話していたりする。だから一日を終えると、ひとことも口をきいていないのに、ああ今日はよくしゃべったと思うこともある。こういう仕事の場合、とても忙しい状態というのは、バキバキとパソコンに文字を打ち込んでいる姿だから、忙しいほど体が動かず、太る。
 面倒くさくて返事をパスすることも多い。だが結局それは先送りで、督促が来る。偉い人には筆まめな方が多く、返事が即座に返ってくる。尊敬する人はたいていそうだ。見習おうと思うのだが、生来メンドくさがりで申し訳ない。
 受信した全てのメールの数と、返事したメールの数との比率をとれば「律儀度」が計れるだろう。と思って数えてみた。私の場合、今週の平日のみで、単なるお知らせPRなどのメールを除き、受信したもの計321通。同期間中、Reで送信したもの128通。律儀度4割。イチロー並みかな。
 クリエイティビティさを測る手法として、「Re率」というのも考えてみた。メールを送るのに、返事が多いか、新しいスレッドを立ち上げて話題をクリエイトするか、その比率を測る寸法。自分のメーラーにある全送信メールに占める「Re」の割合を計算して、これが低いほどクリエイティブとみる仮説だ。今回、送信メールが243通。うちReが128通。Re率5割3分。非Re率4割強というのは結構クリエイティブな週だったと思う。今週は忙しかった。
 こうしてじっと仕事する季節もあるが、ネットで働くずっと大きなメリットは、居場所を特定しなくてもいいということだ。ボストンであれ東京であれパリであれメキシコであれどこであれ、ネットにさえ接続していれば、バーチャルのコミュニティに顔を出していれば、働いていることになる。生身の私は、研究室にこもって難しい作業をしていようと、東京の満員電車で体を潰されていようと、社会とのインタラクションがなければ、サボっていることになる。
 とはいえアメリカにいる間は、家にいることが多い。ネット環境がいいからだ。で、子供と遊ぶ。彼らも早くデジタルに慣れた方がよかろうと思って、パソコンやゲーム機を使わせようとする。だが連中は、野球とか水泳とか虫取りとか、火花を散らすコマのオモチャとか、ブロック組立とか、たてぶえとかハモニカとか、ねんど細工とか、クレヨンでのお絵かきとかの方に興味があって、なかなか乗ってこない。
 観察しているとわかる。それは彼らのデジタル感覚が遅れているせいではない。彼らにとって、クレヨンが紙と触れるときの体感、粘土の湿り度や弾力が与える現実感、そうしたアナログのリアリティをデジタルがまだ超えていないということだ。いや、デジタルはアナログに全く追いついていない。パソコンでのお絵かきやゲームは、まだリアリティには遠い。つまり、デジタルは追求すべき領域をまだ無限に残しているということだ。
 ウチの近所はユダヤ人社会のせいか、戒律やしつけが厳しくて、イイコが多い反面、火遊びやドロ遊びをしにくい窮屈さがある。子供が花火しようとするので仕方なく、火だるまにならないように気をつけろよと注意したら、火だるまって何って聞かれた。
 思い出す。父が君達のころ、家から自転車で15分も行くと京都大学があって、なぜかいつも大騒ぎで、ヘルメットの人たちがドンパチやっていて、たまに火炎ビンを浴びた火だるまの人が走るシーンにでくわした。近所のガキどもと放課後よく見学に行った。
 酒ビンもって見物してるオッサン連中もいた。ウォー学生もっとやれ、キドータイいてこましたれ、などと怒鳴っていた。南海ー近鉄戦を観てるノリだった。大きくなったら思いきりあんなことできるのかなあと思っていた。大人になったらそんな非日常はほとんど失せていた。
 
 先日、関空から京都に入り、イベントに出席した。パソコン同士を接続して音楽などのファイルを交換するGnutellaというソフトを開発した一人、ジーン・カン氏が初来日し、東大の武邑助教授や伊藤穣一氏らも交えてのパネルに参加した。京都の縁。
 NapsterやGnutellaが音楽業界など著作権ビジネスに与える影響が取りざたされているが、これらソフトがコンテンツの在り方を変えていくことは間違いない。コンテンツを作ったり消費したりする行為は、著作権で囲い込むクローズドなシステムから、オープンな広場で共有・生産していくシステムにシフトしていくだろう。
 そして、自分のコンテンツ、自分が貢献できることを持ち寄ることが、そのコミュニティの参加資格になるだろう。取り込んだり消費したりするだけでは仲間に入れてもらえない。NapsterやGnutellaの前身、ホットラインのコミュニティがそうだった。そうなって初めてネットは本領を発揮すると思う。
 それはそうとジーン、キミはGnutellaをヌーテラと呼ぶが、日本の人たちはグヌーテラって呼んでるぞ、ホントはどっちだ。グありなのか、グなしなのか。と聞くと、ジーン・カン氏「ああ、どっちでもいいです、使う人が好きなように呼べば。」とのオープンな回答。これだけで、この男、こっち側のヤツだと思った。
 その足で東京に向かい、部屋にて宴会。テレビ局、ゲーム会社、ネット系、外資系証券、プータロー、気功師、音楽業界人、某官庁、など常連が集い飲む。この会は、仲間に私の帰国日時だけ知らせて、やおら集まる。出欠も取らない。誰を連れてきてもいい。
 参加資格は自分の飲み物食い物を持参すること。場所があって、コンテンツをシェアする。ホットラインのノリ。しかし目的もなければ名称もない。ビジネスやロマンスの一つも生まれそうなものだが、そんなことは全くない。ただ酒と時間を朝まで浪費する。私が定期的に帰国する最大の用件。
 音楽制作者連盟のイベント「In the City in Tokyo」に参加する。音楽との縁。この業界は、ネット配信やケータイやデジタルテレビの出現など、デジタルの影響を最も強く受けている。今回もデジタルと音楽業界が中心テーマ。みんなよく勉強する。もともと勉強なんかキライで音楽はじめた人が多いのに、よく勉強する。
 でも音楽産業のレベルでみれば、デジタルの影響は簡単だ。中抜きが起きるということだ。橋本典明氏がパネルでも言っていたが、ITというのは、いらんものをとっぱらう、の頭文字。無駄な仲介機構が抜けて、オーディエンスとクリエイターが直結するということだ。それはもう見えている。
 私の関心事は、産業のことではない。ビジネスには関心がない。ビジネスなんて本来は秘め事で、私的なことだと思う。もうかるように黙ってやればいいんだと思う。実際もうけてる人はそうしてると思う。集まって議論を要するのはもっと公的なこと。
 例えば私の関心は、デジタルでオーディエンスがどう変わるか。デジタルでクリエイターがどう変わるか。そして、デジタルで音楽そのものがどう変わるか。という点だ。そこで、橋本氏や飯野賢治氏らとパネルを開いた。私は質問役。
 例えば私の質問は、デジタルが進めばCDを買う人は減るか?ライブに行く人は減るか?音楽への支出は減るか?というようなこと。クリエイターについては、音楽を演奏する人は増えるか?クリエイターの取り分は増えるか?メガとマイナーの二極化は進むか?音楽は映像よりカッコイイか?というようなこと。音楽表現について、ニッポンの音楽は国際競争力を持つか?ニッポンの音楽は英語が増えるか?一曲の長さは短くなるか長くなるか?というようなこと。
 議論は活発だったが、むろん結論など出やしない。やっぱりよくわからない。ただ一つ、よくわかったことは、みんなもよくわかっていないということだ。だから安心なのではないが、やみくもに不安がることもないということ。
 そうなんだよ。デジタルだからって前のめりになるこたあない。ガツガツする必要はない。本来おもしろいものなんだから、音楽するのと同じノリで、楽しく行けばいいんだと思う。テクノロジーなんてものは、クリエイトするこっち側に手なずけてくればいい。
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