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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第23話  2000年12月号
■ためておさえてはじけて

 アメリカのモールはどこも似たりよったりで、その多くでGAPがイメージ主導役となっている。若い衆のカジュアルのユニフォームになったかのようだ。ギャップとナイキかあ、アメリカ臭ぷんぷんのファッションだが、日本人でも気後れせずにできるスタイルではある。
 日本でもGAPは勢いがあるそうで、京都の親類からも、キョートにギャップの店ができたんえ、と連絡があった。以前こっちからそのTシャツなど送ってやったときは反応がなかったが、店ができた後その一家はGAPづいているらしく、前おくってもろたギャップてホンマのギャップやったんやなあ、と嬉しそうである。
 ホンマもウソもないと思うが、アメリカで買えばホンマモンと思うのであればそれも効用、ほなまたこっちでホンマのギャップ買うたるさかい待っとけや今度もどったときに持ってったるわ、などと答える。京都に行くときはカバンがシャツだらけになる。
 京都とのつきあいが増えている。ふるさとだから堂々と乗り込めばいいんだが、恥と恋と汗と涙の記憶が長い不在のうちに熟成されていて、この町の門をくぐるのは少し気後れする。不良息子がイナカに帰る気分はみな同じだろう。
 でも京都駅からしっかり入場する。むかしあるとき、通信分野で初めて公共投資の予算を獲得するため、代議士とわれわれ役人とで大蔵省に圧力をかけに行こうという話になった。私の上司が、じゃあ10分後に大蔵省の主計局前で合流しましょう、先生はどちらの門からお入りになりますか、と尋ねたところ、代議士いわく「わたしはいつどこでも、正門から入る。」うん、そうだな見習いたいな。ぼくたちは堂々としていなければならない。
 ボストンと京都は姉妹都市で、縁を感じる。だがなぜ姉妹都市と言うのだろう兄弟都市じゃないのだろう。戦前の溝口に「祇園の姉妹」という小津をうならせたシャシンがあるが、それとは関係ないな。メモリー・オブ・ア・ゲイシャ、という戦前の祇園を細密に描いた小説がアメリカでベストセラーになっている。英語を通じて、自分の知ってる祇園が暗い風情となって現出するのは、妙な気分である。
 とはいえ芸妓やお茶屋とは無縁のままだ。そりゃそうだ、私は京都とは貧乏学生の時代までしかつきあわなかったのだから。素寒貧で、王将の餃子でも食うか、あるいは食わないか状態で、ロックの殿堂、京都大学西部講堂で、ギター抱えてころげ回っていたり、客とケンカしたり、まあせいぜいそんなところだった。
 周りでは、ラッパひとつで世界中を回る近藤等則さんや、あろうことか芥川賞とった町田町蔵なんかが音を出していた。沖縄に移ってこのあいだ死んだボ・ガンボスのどんと、私のやってた少年ナイフ、みな秩序を破壊しながら新しい表現を組み上げたくて、ゴロゴロしていた。
 修学院の向こうに比叡山がそびえていた。すこし左側に入っていけば貴船があった。そちらから流れてくる水が、高野川から鴨川となり、大文字山とのあいだ、南禅寺に至るまで、そのあたりがショバで、ブラブラしていた。不安と不満とでうつむきながら、大学を出るまでブラブラしていた。
 抑制の町だ。1200年の抑制が作用している。だが、押しつぶされたりしないのは、山のおかげだと思う。いつも視界のどこかに山があるという感覚が、私にしゃんとした方位とやすらぎとを与えてくれる。ボストンには山がない。いつもどこか宙ぶらりんな心持ちがする。東京にもパリにも山がなかった。暮らしにどこか違和感が漂っていたのはそのせいだ。
 小学校を卒業するころ、家の向かいに、大きなビルが突然建ち、京都セラミックという看板が上がった。この会社なに、と大人たちに聞いたところで、みな要領を得ず、噂を総合すると、清水焼の会社で、電信柱や入れ歯つくって売りまくっとるということになった。仕事の中味はよくわからなかったが、おかげで社員向けに近所にロイヤルホストができたので住民は感謝した。すぐに有名な会社になり、名前が縮んで京セラとなった。
 高校生のころ、通学途中に花札とトランプとラブテスターの会社、任天堂があり、大学受験に失敗したら雇ってもらおうなどと友人と話していた。大学を出るころには、大学を出ても雇ってもらえないほどの世界企業になっていた。堀場製作所。村田製作所。ローム。パンクなオッサンたちの創ったパンクな世界企業たち。なぜこの歴史の町が、こんなにはじけた会社を次々に生むんだろう。不思議な土地だ。
 最近の京都とのつきあいは無論お仕事である。京都府の南、関西文化学研都市に、子供とアートのセンターを造るプロジェクトを推進している。桜300本と広大な庭と活動用の建物をCSKグループが用意して、子供やアーティストに展示やワークショップを行ってもらう。もちろんMITメディアラボとはガッチリつなぐし、ご近所さんのATRにも使ってもらおうと思う。
 というより、正直いって、おカネも人も足りないし、いっそフル・オープンにして、アイディアとパッションある方々、学生さんも芸人さんも奥さんも、来ていただいて遊んでいただいて、リンクはって情報だして情報いれてアナログにアナログに、という具合にいたしたい。
 どだい縁がある。役人になって初めての仕事が自動翻訳電話システムの開発プランを策定するというものだった。世界に先がけて、だった。人工知能で、だった。15年前のことだが、通信自由化の作業中ということもあって人手不足で、新人にそんな仕事が任された。蝶ネクタイで面接に来たようなヤツにいきなりそういうことを任せるというのもパンクな役所であった。やみくもに委員会を結成し、委員長には京大の長尾さんという若手教授に就いてもらい、走って走ってプランを作った。
 電電公社をNTTにして、その株の一部を政府が持ち、その運用益で研究所を作ろうということに話が膨らみ、その結果、ATRができた。自動翻訳電話もそこで開発が進められている。ATRは世界に名をはせ、メディアラボから技術面・アート面ともにライバル視される存在に高まった。長尾先生は京大の総長になった。ああ15年もたったんだ。
 世界企業なり、国際的な研究所なり、この土地からそういうものが出てくるのは、大学があって人がいる、というだけでなく、やはり蓄積の力、1200年以上かけて貯めて圧縮して重なったものの生むもの、その作用なのだろう。
 東大の武邑さんが京都造形芸術大学にいたころ、京都の古来の「色」や西陣に伝わる紋様をデータベースにするプロジェクトを進めておられた。研究室を訪れたのは2年前。まぶたに焼き付く美しさだった。「21世紀は色の世紀になる。」武邑さんのその言葉がずっと耳に残っている。そうだと思う。そうだと思いたい。そしてこの土地に蓄積された美を、デジタルに再蓄積して、世界に発信したいと思う。
 先日、京都府の方と京都リサーチパークの方に、構築中のゲーム・アーカイブを見せていただいた。ニンテンドーから発生してきた世界文化を、起源から残し、貯めて、発信したいと思う。こういう土着のもの、血として蓄積されたもの、それだけが国際的な普遍性を持つ。
 さて私の本日の仕事は、その新しいセンターの名前を決めることである。企画チームで考えた名前は、CAMP。キャンプ。Children's Art Museum & Park。そのものズバリなんだが。まあまあだと思いません?ダメだよこれ読んでドメイン名おさえちゃ。おさえても買わないよ。
 私はプロジェクトの成否は名前で決まると思っているので、ほんで名前どうする?っていつもこだわる。まず、読めて、一発で覚えられるものじゃないといけない。意味、なんかどうでもいい。普段の仕事でも、いっかい聞いて覚えられない名前の会社とは、まず関係が続かない。たぶん、気合いと相性と縁と、その他もろもろが名前に全部あらわれるからだと思う。
 人の名前で印象的なのは、幼いころやっていた実写版の忍者ハットリ君だ。もう30年以上も前にみた番組で、記憶も定かでないが、たしか亡くなった谷村昌彦さん演ずる教師の名前が花岡実太、はなをかじったで、確か奥さんがミナだった。はなをかみな。たしか校長先生がオヤマソウカイ。いまも覚えてるんだからいい名前だ。
 この番組、京都市の北区にある小学校でロケしていた。そこ出身の中学の同級生が、ハットリ君のライバルの忍者、エンマクケムゾウとかいったが、その役をやっていたのは杉良太郎だと言っていた。これとてもう25年も前の会話であるが、ホントかどうかずっと気になっている。
 マサチューセッツ工科大学というのは、長すぎてイヤだな。舌がもつれるし。マサチューセッちゅ、になることが多い。練習しても、大事な挨拶の場面で、ちゅ、ちゅ、になる。日本人に不向きだ。「夏にはキムチ鍋大学」とか「おみやげあげとくんなはれ大学」とかの方がまだ言いやすい。
 だからといってMITと略すのも、それで大学であることを認識せよという横柄さがにじむ。マサコ大ぐらいがいいのかな。おいおまえが大学つくったらどんな名前にする、って次男6歳に問うと、即座に、ミミゲ大学、と答えた。うん覚えやすくていい名前だ。だが耳毛大って何する学校だろう。まあいいや。とりあえずセンターはキャンプということで今日の仕事おわり。
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