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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第六話  99年5月号
■メディアとヒトのおつきあい

 さっきネット系の集まりに参加したら、インターネットが平和をもたらすと呪文のように唱えるおじさんがいたので、そんなのウソだと言ったんです。すると、批判を浴びましてね。というか、みんなにボコボコにされたんです。ネットで分かりあって平和になるっ、信じないのか貴様、おのれ天に代わりて不義をうつぞ、という感じ。
 ちょ、ちょっと平和に話そうや。そりゃ私もそう信じたい。インターネット平和教をね。サイバー空間は、競争社会を協調社会に変えていく舞台です。そう願う。そう願うんですけど。
 かつて戦争が絶えなかった欧州は、ユーロが導入されて、一つの国になろうとしています。ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、といった州からなる世界最大級の国です。これで欧米日は本当に3極となります。そこに行き渡るネットワークで、3極の相互理解と相互依存は進みます。この3極の価値観はそう離れてはいませんから、その中での争いは減るかもしれません。でも、世界ぜんたいとなると、そんな話が通用するかどうか。
 ネットワークは、情報の接点を増やすものです。争いは、接点が引き起こします。女と男も、接点がなければケンカしません。仲良くなって、抜き差しならなくなってから、ケンカする。国境を超えて、市民レベルで情報が行き交うことで、価値観の違いも明らかになっていきます。土地や交易の利害より、価値観の対立の方が深刻なこともあるでしょう?これを無防備に否定できる自信が私にはないんです。
 いま世界は多元化しています。急速に。冷戦のあいだ、世界は二つか三つのグループに分けて考えていれば済んだのに、その後は、米、欧、日、そしてロシア、南米、アフリカ、イスラム、中国、インド、という具合につぶさに見ないと把握できなくなっています。21世紀には、イスラム、儒教、ヒンズーらの陣営が経済面で大きくなって、宗教や文化のアイデンティティーを背景に、発言力を増すという指摘も見られます。
 インターネットは、オープンです。では誰にとって有用か。たぶん、欧米や日本より、非欧米諸国でしょう。むろん欧米はインターネットでますますリードを広げようとするわけですが、どうやら非欧米からものを学ぶつもりはなさそうです。でも、非欧米は欧米の近代文明、つまり技術や知識を熱心に吸収します。彼らの方が恩恵を受ける度合が大きい。インターネットは彼らにとって発言力を増すための魅力的な道具なのです。
 今のところ、彼らはインターネットでアメリカの文化が流入することに神経をとがらせてます。でも技術と文化は別です。これからも、先端技術を吸収する一方、文化は受け入れることを拒否するでしょう。かつての日本のスローガン「和魂洋才」と同じです。戦後の日本のように、「洋魂洋才」になったりはしません。そして、経済面での自信がつけば、もう神経をとがらせることもありません。今度は自分たちの文化を基盤にして、インターネットで堂々と発信してきますよ。母国語でね。
 宗教や文化ってのはOSで、近代技術はアプリケーションみたいなもんです。同じワープロソフト使ったり、JAVAやSqueakを走らせたりしたとしても、OS同士が融合するっていうのは考えにくいなあ。
 情報を共有することで、世界は安定します。と同時に、情報を共有することで、世界は緊張します。暴力や殺りくは減るかもしれません。だからといって人の本能である「争い」が減るとは思えない。だいいち経済競争だって欧米が奨励した「争い」だしね。ネットワーク社会では、争いの「形」が変わるだけなんじゃないだろうか。だから、その緊張や不安定を否定するのではなく、逆にそれを人類にとっての活力源にすることを考えるべきなんでしょう。
 そんなことより大切なのは足元のビジネスだとおっしゃる。うむ。メディアの動きは速く、ビジネスを把握することもままならない。激戦区のパソコン市場やポータルサイトはもちろん、長期スパンで考えるべきインフラ部門でさえ、1年後を見通すことも不可能です。
 アメリカでは、ケーブルモデムが急速に普及する一方、地域電話会社がADSLを月50ドル程度で本格化させていて、そこにデジタルテレビも参戦する。インフラは競合を激化させていくのか。逆に、AT&TがTCIと合併したりタイムワーナーと提携したりするように、インフラは水平統合されていくのか。さあどうでしょう。
 90年代前半のマルチメディアブームの頃の激闘が再来したようで、目が離せないスペクタクルです。でもいま注目を集めているそういう動きは技術と資本の話であり、誤解を恐れず申し上げれば、人類ほぼ共通で直線運動の簡単な話。だけど、そのウラで、いま考えなきゃいけない文化や生活、価値観や情念といったメディアの本質が見えなくなっている気がする、日本もアメリカも。キミもボクも。
 直線的と言いましたが、技術の進歩は、じゃあどっちに行こうとしているのか。たとえば私の所属するメディアラボは、何を目指そうとしているのか。SFではなく、現実の開発動向に即して、少し強引に読み取る練習をしてみましょう。
 まず一つは、メディアがヒトに近づくという方向です。
 ウェアラブルという呼び名のとおり、コンピュータは服やメガネや手袋や靴に変身して、物理的に私と一体化します。紙のようなコンピュータも開発されています。より正確には、コンピュータの機能を持つインクなんですが、つまり、ぺらぺらで、端末機というイメージはなくなろうとしているんです。
 そして、映像から五感・体感へ、テリトリーを広げます。見聞きするだけでなく、握ったり、抱いたり、蹴ったりするものになります。触覚を通信するデバイスも開発されています。いずれニオイをかいだりナメたりすることもさせてくれるでしょう。
 さらにメディアは私の意思や感情を理解します。キーボードや言葉でこちらから指令するだけでなく、コンピュータが私の視線、表情、身振りを知覚し、体温や心拍を感じとるような技術も実用段階に来ています。ボストンマラソンで、チップを飲んだランナーが、おなかから体温の変化を発信するなんてこともやってます。肉体のコンピュータ化!神経のビット化!
 考えるコンピュータは、対話する相手になります。私の行動、表現、感情の履歴をとっておいて、私以上に私のことを知っているヤツになります。私の記憶は、ネットワークを漂っているのです。これまで、私が指示するデキの悪い部下か、私に知識を与える教師かのどちらかだったコンピュータは、やっと友達になろうと努めているのです。友達なら、デキが悪くても、許す。だって友達じゃないか。
 そして、エージェントと呼ばれるソフトが情報の海を泳ぎ、私が喜びそうなニュースやウワサや知恵を編集して、ささやいてくれます。微笑んだり、なぐさめたりしてくれるかもしれない。せいぜい思考の道具だったメディアは、いよいよ情念を分かち合うためのものになろうとします。情念の交換。これがそもそも言葉やメディアを人類が産んだ動機だったわけです。
 もう一つは、メディアが自立するという方向です。
 服や靴だけではありません。家電、家具、カベ、クルマ、道路、そう、全てのモノ、全ての環境にコンピュータが埋め込まれていきます。私の身の回りにあるモノはみなメディアです。いや、私じしんも肉体メディアなのでした。割礼みたいな儀式でチップを局部に埋めるのかな。ああ、またヘンなこと言っちゃった、カット!カット!
 ヒトとモノは、ビットで理解し、共生します。これは、私とモノどもという二項対立を飛び超えて、モノとモノ、環境と環境がコミュニケートし、理解し合うという状況でもあります。事故の情報がクルマや道路から次々に連絡され、交通がいちばんスムーズになるように信号が自分をコントロールします。人形が他の人形にプログラムを伝えてダンスを仕込み、人形たちのコミュニティでポップな踊りが流行ったりします。
 テレビにカラー番組が出てきたころ、新聞のテレビ欄にもテレビ画面にもカラーという表示がありましたけど、ぜんぶがカラー番組になったら、もうカラー番組とは呼ばず、ただの番組になりました。同じく、あらゆる物体がメディアを備えるのなら、それはもうわざわざメディアとは呼びません。つまり、メディア技術の開発は、メディアと呼ばれるものををなくそうとする方向に進んでいるわけです。メディアをなくせ。
   
 こうして技術は、善悪を問うヒマもなく、わき目もふらずに完成を目指します。でも、同時に、メディアにとって大切なことは、美です。高速、知的、安価という技術に加え、エレガント、エロチック、カッコよさ、というのも条件になってきます。ウェアラブルにしろ何にしろ、技術が受け入れられていくには、そこが決め手になります。
 ヒトがメディアと美しく共存していくには。それにはまず、価値が多様だということを、本当に理解する必要があるでしょう。アメリカは、それが得意なように見えて、いちばん不得意な国です。強者だから。国内は多様でも、外部に対しては自分の価値を押し付ける。その点、日本は、国内は画一的でも、世界は多様だということが見える立場にあります。ここは日本が答えを出していってやるべき部分ではないでしょうか。
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