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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第五話  99年4月号
■ウェアラブルをブームにする気?

 アメリカはクルマ社会だといいます。クルマがないと生きられないという意味です。確かにいま住んでる場所は駅も停留所も遠いから困ります。そこでクルマ選びです。これまで新車なんて興味なかったのですが、勉強のために見回ってみました。
 いや大変なことになってますね最近のクルマは。エアコンが電子制御されているのは当然で、座席の位置や傾きも記憶されるし、危険がせまると風船は飛び出すし、速度も抑制されるという。コントロールが効いてます。過去の平均時速や燃費の情報を運転手に語りかけてくるし、オーディオは家にある機械よりいい音を出す。饒舌です。
 クルマの外とのコミュニケーションも手厚くなりました。自分の居場所もルートも衛星で確かめて、テレビも持ち込んで、モバイルでインターネットも簡単。いやわざわざPCなんて持ち込まなくても、クルマ全体がチップで埋め尽くされたコンピュータと化してます。いわばクルマというのはコンピュータにエンジンとタイヤをくっつけたもので、まもなくそれは運転手が指令しなくても、外から電波で制御されて、自動運転ができるようになるでしょう。
 ドアの開け閉めはカギから電波を飛ばせばいいし、高速道路の料金ゲートはボストン銀行のカードで自動通過できるようになってます。カギにチップ入れれば、たいていのことはここから指令できるはず。行き先、経路、ガソリン支払い、免許・保険証明、自動車電話ID、好きなラジオ局の設定。標準化されたキーさえ持ち運べば、どのクルマもすぐにカスタマイズされたマイカーになるわけだ。まあ技術的には可能でも、標準化が熾烈を極めるでしょうけどね。
 なんだかクルマの差別化というのは、走りという本筋よりも、飾りつけのところで競っているような気がします。自動車の技術そのものはもう成熟しているから、そこで勝負をかけると、コスト競争になっちゃって、安上がりの国に勝てなくなってしまうということかな。いずれ通信分野もデジタル技術が成熟していけば、そういうことになっていくのかなあ。
 いや、コンピュータだって偉そうなことは言えない。パソコンなんてのは大半のハードメーカはウィンテルを積んだ箱を売ってるということであって、ウィンテル側の機能が上がる瞬間に、みな一斉に同じような新製品が並びますもんね。私には何を差別化して売ってくれているのかとんとわからない。さらにこれからは、コンピュータの機能はそこに埋め込むモデムの速度の方が重要になっていくでしょうし。
 コンピュータの埋め込みってことで言えば、クルマだけじゃなくて、エアコンも、洗濯機も、掃除機も、冷蔵庫も、炊飯器も、身の回りにある製品は今どんどんコンピュータ化されています。これからは、家具、じゅうたん、カベ、道路、そして町ぜんたいにチップが埋め込まれていきます。さらにそれらがネットワークでつながれ、通信端末となっていくのです。
 しかもコンピュータは、人の意思や気持ちを理解する方向に進化します。だから、人とクルマ、人と冷蔵庫、人と家、という関係の広がりは、人が指令する相手が広がっていくだけでなく、机が私にその日のスケジュールを語りかけ、クルマが私にとっておきの場所を教えてくれるようになります。さらに、モノ同士がコミュニケートをしはじめて、朝、照明器具がソファに電球が切れそうだとつぶやき、そのビットを靴が蓄積し、帰り道、スーパーを歩いていると、私のピアスはあの電球を買えと私にささやくのです。ナント暮らしやすくなることでしょうか。
 そして、その現実の姿として登場したのが「ウェアラブル・コンピュータ」です。ウェアラブルというのは文字どおり、身につけることができるということで、服、帽子、靴、メガネ、アクセサリ、といったものをコンピュータにしましょうという動きです。ずいぶん小型になったモバイルコンピュータをさらに分解して、ディスプレイや入力装置を衣服や肉体にくっつけてしまうという感じですね。
 これは私のいるMITメディアラボあたりが中心になって、2年ほど前からにぎやかなテーマになってきたんですが、日本でも98年、日本IBMや東芝などが試作品を発表したり、新聞社がシンポジウムを開催したりして、実用化段階に突入ということでやおら注目を集めるようになりました。サイバーパンク上陸というわけです。
 ウェアラブル・コンピュータを身につけた人を観察してみましょう。メガネ型のディスプレイやヘッドホンが表示装置になっています。かつてバーチャル・リアリティで話題になったゴーグル型のヘッドマウント・ディスプレイをつけている人もいます。入力装置には、音声入力、手のひらにあるボタン式装置、衣服に縫い込んだキーパッド、といったものがあります。
 視線を感じとって情報をコンピュータに入力するメガネなんてものもあります。視覚というのは、脳にインプットするだけじゃなくて、目からアウトプットする機能もあったんですね。表情やジェスチャーをデジタル信号に変換して相手に伝えるという方法も研究されています。さらに、体温や心拍を服が感知して、ビットとしてインプットする方式もあります。
 つまり、ウェアラブル・コンピュータは、人の意思や表現や肉体をコンピュータがどう認識するかという機能に重点を置いているんです。単純に携帯PCを分解したものとは性格が違うんです。人をコンピュータに近づけるというより、コンピュータを人に溶け込ませようとしてるんですね。そうですね、道具なんだから、当然の姿勢ですね。
 使い方も、普通のパソコンとは違います。パソコンは、使う時、さあ使うぞとエリをただして正面に座り、スイッチをオンして、OSがぐもぐもと立ち上がるのをかしこまってお待ちするわけです。が、ウェアラブルのスイッチはいつもオン。歩きながら、作業しながら、考えながら、その時々の活動や思考を補助するという使い方だからです。パソコンを使う時はそれが活動の全てであり、「ながら族」になるのはむつかしい。だけどウェアラブルは、「ながら」のために生まれてきたわけですね。
 当面は特殊用途のためのものになるでしょう。工場や倉庫での作業だとか、高齢者の健康管理だとか。ただアプリケーションはいくらでも広がります。技術的には。難しいのは、コンピュータがこっちに溶け込んでくるという大変な事態に、人はいつごろ慣れるのかということでしょう。メディアラボにはもう何年も身につけているというサイバーパンクな兄ちゃんがいますけど、みんながそれをヘンなヤツと思わなくなるまでにはかなり学習期間が要ります。
 私が気がかりなのは、「意味」を間違えないようにしながら、ゆっくりでいいから、ちゃんと、ウェアラブルを世の中に溶け込ませることができるかどうかということです。パソコンは便利ですね、クルマは便利ですね、というのと同じ感じで、ウェアラブルは便利ですね、って具合に話を進めると、間違えるよってことを気にしてるんです。
 便利なのは否定しないけど、もう世の中、便利の飽和状態で、ケータイの次はそれが服に埋め込まれて便利でしょって言われても、ゲップが出る。新しい技術が出始めたところではしゃぎすぎると、生活感に根ざしたうねりが来ないから、新奇性だけで上滑ってしまう。
 例えば、テレワークは便利です。ハンバーガー食いながら走って仕事する人たちにすれば、家でも仕事できりゃうれしいかも。だけど、狭い家に住む人にとっちゃ、女房コドモのいる部屋で仕事させられるのはやだ。フランス人やイタリア人なら、そもそも仕事を家に持ち込むことに反発するかも。家で仕事しておカネ儲けする便利さと、平日の昼からワインとパスタで盛り上がって昼寝してそこそこ暮らすのと、どっちが豊かでしょう。
 とか言いつつ私いま女房コドモのいる部屋でウィンテルとにらめっこしながらこれをしこしこ書いてるので何の説得力もありませんが、要するに申し上げたいのは、ウェアラブルは今ブームにしちゃいかんということです。焦ってブームにすると、ぽしゃる。するとホントに立ち上げるための時間をロスするからなんです。
 現在進行中のマルチメディアというのは、サイバー空間の開発と、映像表現の開拓という二大テーマがあって、それが完成するには1〜2世代はかかる、2050年ごろにできあがってくるものだと私は思っています。そして、その次に、情念と肉体と環境が一体化する新しいステージが待っていると私は信じています。その、新しいステージのさきがけがウェアラブルだと思うんです。
 これは一言ではうまく言えないので、こんどまた説明にチャレンジしようと思いますけど、ひとまずこれだけ強調しておきます。ウェアラブルの目指す方向は、大切な意味を持っているので、もし許されるなら、焦らずゆっくり行きましょうよ。
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