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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第二話  99年1月号
■日本型情報社会とは

 ボストンは落ちついた静かな町です。アメリカの歴史を展示する博物館です。でも京都やパリに住んでいた者からすれば、重さに欠けるといいますか、そこは急ごしらえの国の哀しさといいますか、いくらロンドンっぽく化粧したところで、無理して拓いた土地にポコポコと家を建てたという素肌がのぞきますな。
 ただ共通しているのは、スケールがコンパクトだってところ。町ぜんたいを歩いて把握できるわけです。東京やニューヨークは広くってそうは行きません。大学の町で、あっと驚くハイテク産業が出てくるってところも京都と似てるかな。あと、寒いところ。
 しかしアメリカの都会は情報の面で便利ですな。電話は市内固定料金だしね。私のは月26ドル基本料でローカルかけ放題です。ワシントンの知人は月11ドルとか言ってたな。これは支払いが少なくて済むっていうことより、料金のことを気にせずに済むという点が重要ですね。つまり、月の終わりに届く請求書の額がどうという「事後」の問題じゃなくて、じっくり考えながらメールを読んだり書いたりウェブを使ったりするようにできるという「事前」の問題です。「理解」や「表現」を「時間」や「金銭」という束縛から解放するかどうかです。「経済」の問題じゃなくて、「文化」の問題です。
 だからこの定額低料金というやつは日本も絶対にやらなきゃだめなんです。本来、ゆったりした観念で東洋から広めていけばよかったものを、コストがどうとか競争がどうとか、そういう旧アメリカ的な感覚でぐずぐずしていたら、アメリカの方がとっくにそこから抜け出していたんです。
 だけど便利ですなアメリカは。飛行機に乗ると衛星の電話が使えますし。座席からPCをつないでメールを送ったりするんです。私も薄いノートPCを持ち込んでやってみましたけどね。でもそんなものを飛行機に持ち込むというのは、便利でいいのかね。いつも情報とつながってるというのは、あいつからの連絡とかあの野郎の監視とかからの逃げ場をなくして、自分の首をしめてるんじゃないのかね。
 アメリカはタバコにうるさくて、機内も空港も当然のように禁煙ですけど、いったんタバコを敵視すると撲滅するまでやるのがアメリカって国のやり口で、最初は少しぐらいなら仕方ないかと思っていても、しまったと思った瞬間には、タバコ吸いにはもう地上にも空中にも場所がないってことになる。情報化で便利になるって話に乗せられて、いやひょっとしてこっちの首をしめることになるんじゃないかって気づいた時には、もう逃げ場所はなくなって、地上も空中も電波でいっぱいになってるんですよ。
 便利さや機能を追求するという点ではアメリカと日本は似ていて、まあドイツもそうですね、それは経済産業の国であるということです。そういう近代文明と、ムダやいかがわしさとを同居させていこうとするのがラテンです。でもアメリカは、無理してゆとりを買うって面も持ってます。一生懸命はたらいた後の目標は、ゆとりなんですね。
 ボストンの郊外に地下鉄を伸ばす際、地下鉄が来ると地価が下がるといって住民が反対したそうなんです。わざわざゆとりのために郊外にコスト払って住んでるのに、アクセスが便利になると都市労働者が住むようになるからだって。
 戦後の日本の価値観は経済一色になって、一生懸命はたらいた後の目標は便利で機能的ってことになって、その便利の行き先が、ぢでもないのにウォシュレットのある独り暮らしっていう、ゴージャスさに欠ける姿になる。ウォシュレットについたセンサーとカメラがインターネットで都会の医者とつながって、病気がみつかると、そこから座薬がにゅっと挿入されるようになりますよそのうちきっと。ああ便利でうれしい。
 でも世紀末になって、日本も本当のゆとりやゴージャスを求める機運が出てきたように見えます。たぶん江戸時代まではみんなそういう心持ちだったんでしょうな。どんどん便利になっていくのがいいという価値観はなかったんでしょうな。明治からあと、そういう価値観を取り入れたはいいけど、近代をいびつに解釈してきたような気がします。
 それに比べていまだにパリは不便です。親から授かったものを磨き磨き使うのが自分の豊かさだという価値観が崩れておらず、新しいテレビや新しいコンピュータにすぐ飛びついたりしません。ただ、ミニテルがでてきたのは、あんまり電話が不便だからで、不便といっても機械じゃなくて電話の応対のことですが、日本のように電話の応対がいい所では、キャプテンとかメールとかいったものはそう簡単に普及しません。
 国によって、モノに対する姿勢や情報への態度は違います。日本は、言葉で論理表現しなくても黙って見つめればわかりあえる国で、価値観が均質で情報に対して受け身だという土壌があります。多元的で、主張や表現しなけりゃ何も通じないアメリカとはずいぶん違います。
 メディアの発達の仕方も、日本ではテレビが全国メディアとして機能してきたのに対し、アメリカでは、全国メディアというのは映画の機能で、テレビはローカルの色彩が強い。ただ、いまもアメリカではテレビはプロの仕事であって、報道や討論がやたらに多いわけですが、日本のテレビは80年代にアマチュアの世界になってしまいました。
 例えばテレビの大半を占める芸能にしたって、そう、最近はプロの芸を見ることが少なくなりました。歌手はお笑いをやっていて、お笑いさんは司会をやっていて、しっかりした芸といえば日曜の夜に見られるダウンタウンの漫才ぐらいのものです。
 視聴者が自分と同じレベルでみられる近い存在のメディアをめざしたわけで、それがいいことなのかどうか。まあそういうのが主流のうちは、国民が安心している平和な状態なのかも。サラリーマンがグジグジくだまいているだらしない飲み屋というのは、社会の肛門といいますか、生産性はないけど、これがなくなると全体がブシュッと決壊するという機能を果たしてますが、テレビもそれと同じで、下品なものというのは社会の安全弁としての機能を果たしているのかもしれません。
 日本は昔から大衆文化として映像表現を発達させてきましたから、そういう結論になってきたのかもしれませんが、表現能力が下がることは心配です。ボストンのアパートでいまテレビをみていたら、いつかもういちど見たかったもーれつギリガン君をやっていて、主題歌を原曲で聴けたのでうれしい、じゃじゃ馬億万長者やわんぱくフリッパーの原曲も聴きたいなあ、隣のチャンネルでは尊敬するBBCの往年のモンティパイソンをやっている。アメリカもイギリスもテレビの表現力は昔に比べて落ちてきたのかな。今のテレビ番組を比較すれば、総体的にはまだ日本の方が面白いとは思いますけど。そうか。世界的なテレビの凋落なのか。この凋落を必死で食い止めているのが日本のテレビゲームというわけですね。ゲームのことはまたいずれじっくり話します。
 いずれにしても、どの国も、これからはコンテントの時代です。電気通信審議会が答申したビジョンでは、2010年にメディア産業は125兆円になって、その55%をコンテントが占めるそうですが、家計の全消費支出のうちメディア支出の比率は変わらないという経験則からみて、今のコンテント分野である報道やエンタテイメントが伸びるわけではないですね。医療や教育や金融が情報産業になって範囲が広がるということです。
 そんなサイバー社会を拡張するためには、課金の方法を確立するとか、信頼性を確保するとか、前提となる条件をまだこれから揃えていかなければならないんですが、太いネットワークも必要です。そう、テレビのコンテントも電子商取引も含む太い回線です。
 アメリカの場合、90年代の前半、情報ハイウェイとかいうふれこみで、CATVや通信の機能アップが図られて、それがスーっとした足どりでインターネット一色に移行してきました。PCを中心に据えて考えているんですから、そりゃそうなるでしょうね。
 日本の場合、テレビを軸に考えればいいんですから、テレビ電波のデジタル化が中心的な機能を果たすべきでしょう。通信と放送の融合ということになりますが、エヘン、法律の定義上、放送は通信の一部でありまするから、特殊用途に使ってきた電波を全体のために有効活用し直しましょうということです。
 アメリカはサイバー社会に向けていちばんの近道を選ぼうとしています。日本もひとまねでなく、自分にとっていちばんの近道を見つけるべきでしょう。
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