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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第一話 98年12月号
■日本のメディア・アイデンティティー

 アメリカの京都、ボストンに移住する準備をしています。14年間つとめた郵政省を退職し、マサチューセッツ工科大学(MIT)に転職することにしたからです。
 MITでの肩書きは客員教授とか講師とか何となく教師っぽいんですが、実際は授業をするわけでも自ら研究するわけでもなくて、「メディアと子供の未来」に関するプロジェクトを担当します。役人の延長のような仕事ですね。そしてこれは、CSK−セガ−アスキーグループの大川功会長がスポンサーとして推進するプロジェクトなので、私は民間人として赴きます。官から学、産へとポジションを移し、日本からアメリカへと場所を移すわけです。
 私のことを知る人からは、ニッポン大好き、フランス小好き、アメリカ嫌いの中村伊知哉が、なぜ日本国官僚のポジションを捨てて渡米するのか、とうとうヤツも日の丸すててアメリカのビジネスの軍門に下るのか、という指摘もあります。
 いえいえ。軍門には下りません。
 べつにアメリカが嫌いってわけじゃないんです。アメリカって、いいヤツばかりなんですよね。まぐわい屋とかいうバッターがホームラン記録つくった時の熱狂ぶりをみると、憎めない連中だなあって思うわけです。だけど、国という単位で見れば、世界ぜんたいがアメリカ一色になっちゃうのはつまらないというか、困るわけです。
 そりゃ私もインターネットやパソコンの分野で日本がアメリカをギャフンと言わせるのが難しいことは承知しています。アメリカは偉いですよ。知ってますよ。
 それにソニーやトヨタの例を挙げるまでもなく、もう企業は国という単位では動いていなくて、産業は国家から遊離しているというか、産業は国家を選ぶ時代に入っていることもわかってますよ。そうじゃない団体ってのは、大蔵省とか、銀行とか、そういう国がらみのところばかりで、つまり、つらい目にあってるところばかりだということも知ってますよ。
 だいいち国という単位で考えるのは気合いが要ります。サッカーにしても、日本でもイタリアでもフランスでも選手の国籍は入り交じっていて、ワールドカップの時だけ母国に帰ってやおら国旗を背負うわけです。そこでの国旗は、ぶざまに負けたら射殺するぞという意味です。ボクシングの世界タイトルマッチも国旗を背負いますが、あれも負けたら死ねという記号です。
 だからポジションを換えるに当たって、ハラをくくりました。私がアメリカに行くのは、アメリカから学びたいからではありません。私は、教えに行くんです。情報をいただきに行くのではありません。情報を発信しに行くんです。日本をです。世界の中で、アメリカのネットワーク文化とは別の柱となり得る日本の情報社会像をです。なーんて言ってみたいんですけどね。
 ここまで書いたところ、テレビが臨時ニュースを流しています。黒沢明監督、逝去。日本の映像クリエイティビティーを世界に発信し、アメリカやヨーロッパの映像家を刺激しつづけた20世紀の偉人が逝きました。国際的な賞を獲得した著名な作品はむろん、「白痴」、怖かった、「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」、三年連続で映画の教科書をお遺しになった、「どですかでん」、カラーとは何かを問うた、その他すべての作品を自分の血の中に記憶として流しながら、私はアメリカで、黒沢のいた日本から来たんだと胸を張るのであります。
 かくなるうえは、アイデンティティーを見つめ直すことが必要だ。そこで先日、逓信博物館「ていぱーく」に行ってきました。ここは郵政省が運営しているんですが、役人を辞めてはじめてその存在を強く意識したんです。NTTやKDDやNHKのコーナーともセットになって、郵便や電気通信・放送の歴史から最先端の技術までを網羅的に展示しているんです。
 例えばラスコーの洞窟の展示があります。そのころヒトは映像で気持ちを伝えようとしていたわけだな。そもそも映像でモノを考えてたんだな。実際のラスコーはフランスのど田舎で、光と緑にあふれるステキな場所で、文字も論理も要らないって気持ちになりますしね。
 それから古代エジプトでパピルスが発明され、ヒトは文字を生み、メディアを生んだけれども、それから何千年もかかって今ようやく人類は近代メディアで映像を扱うようになりました。それはラスコーの洞窟にいた人たちが願ったコミュニケーションにやっとたち戻れるようになったってことです。
 1階には特別展示がありました。日本のアニメ特集。うれしいことです。まずは「ハクション大魔王」の3D映像。市川昭介のテーマ曲は日本ポップスの最高峰です。宇野誠一郎が作った童謡の「アイアイ」と肩を並べます。世界に誇れます。これ、わかんない人は原曲を大音量でじっくり聴いてみればよろしい。それでわからなきゃ、文字で説明してもわかりません。
 このテーマを歌ってるソウルフルな歌手は誰だろう。若い頃の天童よしみが「いなかっぺ大将」を歌ってたと聞いたことがあるけど。もの悲しいアクビのテーマは誰が歌ってるんだろう。デュワー、デュワー、デュデュッデュワー、って無意味な歌詞だな。フィンガー5の「恋のダイヤル6700」でもリンリンリリンっていう無意味が続くけど、あのころはまだ、そういうムダを許すゆとりがあったなあ日本には。あれからずいぶん進化した日本で今そんな芸当ができるのはパフィーぐらいのもんじゃないかな。
 キリがないので移動する。「ペリーヌ物語」「あらいぐまラスカル」「フランダースの犬」をセガサターンで操作するコーナー。「金田一少年の事件簿」をプレイステーションで動かすコーナー。アニメとゲームをドッキングさせて子供たちに見せてるんですね。日本ですねえ。
 先日、野村総研による「情報通信利用者動向の調査」というのを読んでいたら、日本はアメリカに比べて、多チャンネル化に否定的で、自己表現の欲求は低く、テレビの視聴時間は長く、パソコンの利用は低く、そうしたことに不安を感じていない、ということが書いてありました。
 なるほど。つまり日本は、情報を出すよりもらうのがスキで、選ぶのはイヤで、だから、メールよりウェブ、発信よりダウンロード、プルよりプッシュ、PCよりTV、ってわけですよ。だから、アメリカ型のPC−インターネット社会を導入したってすんなりとは行かないし、PCの普及が遅れてるといったって、庶民はそれに不安も感じていないわけですよ。
 遅れているというより、形が違うんですね。日本はテレビの国なんですよ。この国のネットワーク社会は、テレビのコンテントを軸に作られていると思うんです。ゲームを含めたテレビ表現です。それは映像産業が映画からテレビに移行してできあがったものですが、いまや競争力のある産業という面でも、テレビ回りの、家電とかアニメとかゲームとかでしょ。
 問題は、次の映像社会です。どんなネットワーク文化を作っていくかということです。アメリカはアメリカにふさわしいネットワーク社会を作ろうとしています。ヨーロッパも、アジアも、たぶん自分たちにふさわしい情報社会を作ろうとしているんだと思います。じゃあ日本はどんな形の社会にもっていくのがふさわしいのかということが気になっているんです。
 たとえばネットワークのデジタル化や広帯域化は世界共通の課題ですが、その意味あいは、国によって違います。日本の場合、その必要性は通信需要からは出てきません。テレビのデジタル化も、新しいダウンロード用回線の出現という意味で、他国に増して重要な位置づけとなるはずです。
 そして次の映像社会にとって最も大切なもの、それは映像クリエイティビティーだと思いますが、日本はハリウッドと並び立つほどの豊かな映像表現力を庶民文化として養ってきました。斜陽と言われる映画にあっても、97年には、宮崎「もののけ姫」、今村「うなぎ」、河瀬「萌の朱雀」、北野「HANA-BI」という底力を世界に示しました。いずれも日本の土俗を描き、それがゆえに世界に普遍的な表現として評価されたものです。
 マンガもアニメもゲームも含め、こうした表現力というのは、豊かな視聴者・利用者の層に立脚しているのですが、問題は、そういった大切なことが、この社会の中で、大切なことだと意識されていないところにありますね。
 カンヌやベネチアで作品が絶賛される前に、あるいは巨匠の死後に国民栄誉賞を検討する前に、自分たちで大切なものを見つめ直したいものですよね。
 ところが外国は、日本が得意だった分野にまた攻勢をかけてきています。ワーナーやドリームワークスがアニメに力を入れ、ディズニーはアジア向け作品を作り、次世代のオンラインゲームはアメリカの独壇場になりそうです。フランスも韓国も躍起だといいます。大丈夫かなあ。
 そこで私は、羽織ハカマで、ポケモンいえるかなを歌いながら、単身、渡米するのです。
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