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わからん、それが問題だ  96.11-98.10 マックパワー(連載終了)
第二十三話  中村伊知哉でございます。   98年9月号
 私事で恐縮ですが、このたび長年つとめた郵政省を退職し、米国・ボストンにあるマサチューセッツ工科大学(MIT)に赴くことと致しました。MITでは、メディアラボのネグロポンテ所長らとともに、「未来と子供とメディア」に関するプロジェクトを担当します。
 このプロジェクトは、CSK・セガ・アスキーグループの大川会長がスポンサーとなって、子供や教育とコンピュータ、ゲーム、デジタルコンテントとの関係を追求するものです。私は、そこに単身乗り込み、アメリカのPC・インターネット・ハリウッド社会像と、日本のテレビ・ゲーム社会像とを融合して、子供たちが築く世界の情報社会像を発信して参ります。
 私は民間人になるわけです。MITの仕事が終わったら、そうですね、帰国して、ゲーム屋のオヤジになろうかと思っております。身近な人にこの話をすると、みな、なぜ役人を辞めるのかと聞きます。この不景気に、高級官僚の栄光を捨てて、メディア界の泥にまみれようとするのはなぜなのか。うまく説明できません。まあ病気みたいなもんですな。でも、私の経歴を申し上げれば、少しわかってもらえるかもしれません。
 私は学生時代、少年ナイフというバンドに携わっていました。マイクロソフトの世界CMに抜擢されたりして、今では有名なバンドですが、当時の私は自分のクリエイティビティに限界を感じ、進路を変えることにしました。就職です。しかし、メディアや表現を大切に思う気持ちは変わりません。その頃は、ぼんやりとコミュニケーションのことを考えていたため、フィールドの広さを優先し、放送や電気通信や郵便をトータルに捉える機関があることに気づいて戸を叩いたわけです。郵政省です。
 今でも不思議ですが、採用されました。入省希望の書類に「関心事項はマンガとパンク」と書いた記憶があります。84年のことです。そして、幸いにも、私は役所でほぼ一貫してメディア行政に携わってきました。入省は、通信自由化の前夜でした。制度の大改正の最前線に身を置きました。ISDNの実現や自動翻訳電話システムの開発といったプロジェクトにも燃えました。CATVと衛星のドッキングにも燃えました。ニューメディア・ブームの頃です。新しいメディアが産業として次々と勃興し、メディアを産めよ増やせよの雰囲気でした。
 
 郵便局長を経験して、90年代に入り、こんどはメディア政策全般を見渡すポストに就きました。マルチメディアという言葉が登場し、インターネットはまだ見えない頃です。ハードの未来が見えてくる一方、ソフトの重要性がいよいよ認識されはじめた頃です。
 思い返せばこの頃は、タブーを破ることばかりやっていました。従来の政策をひっくり返す、パンクな仕事といいますか、オセロゲームのような作業ばかりでした。やるべきことが山脈のようにありました。いわば従来のメディア領域を形成してきたエスタブリッシュメントに対し、強烈な理想と危機感を抱いたデジタルの無頼派が、世界中でゲリラ活動を起こしていた時期でした。私は役所の中で、そんな役回りを演じることにしました。
 まず、情報通信インフラという言葉を作り、電話も放送の電波も含めた総合ネットワーク政策を立てることにしました。個別メディアの政策を整理しようとしたため、軋轢もありました。情報通信分野で初の公共投資を実現したのもこの時期です。
 それから、ソフト政策というか、今でいうコンテントの政策をハード行政と並ぶ柱にしようという試みに出ました。これは今も道半ばですが、その過程で、従来の政策とぶつかる場面も多くありました。
 たとえば当時、「通信と放送の融合」という言葉はタブー視されており、これを政策転換させるまでには、かなり激しい議論が必要でした。「マルチメディア」という言葉も白眼視されていて、私は勝手に郵政省マルチメディア政策担当を自称して勝手に委員会を作ったりしておりました。そのとき勝手に自腹を切って出したCD-ROM報告が、世界で初めて役所が出したCD-ROM報告だったことは、かなり後になって知りました。
 その他ヘンテコな研究会を作ってみたり、マンガを出してみたり、あれこれ物議をかもすようなことを繰り返しましたが、インフラ整備の促進だとか、研究開発の推進だとか、障害者のメディア利用支援だとか、そういう政策を実現するための各種の法案を作るという役人らしい仕事にも携わりました。
 そうするうち、マルチメディアはコンピュータからネットワークの世界に移り、インターネットも勃興してきて、デジタル放送も姿を現してきて、さあ、いよいよ面白くなってきた。政策の方向もおぼろげに見えてきました。ゲリラは、主流派に変身しつつありました。ステージが変わるぞ、そんな瞬間でした。
 ここで私はパリに移り、日仏メディア政策の橋渡し役を務めることになりました。愉快な日々でした。しかし、欧州をみつめ、そこからアメリカとアジアと日本をながめるにつれ、危機感が募っていきました。どの国の政府も、産業界も、この分野の主導権を握るため、とても明確な戦略をたてている。特に欧州大陸は、文化やコンテントのアイデンティティ保持を国際政策レベルで明確に打ち出している。ところが日本は、自分の強さと弱さをどう認識し、何を大切と考え、どこを強化し、世界の中でどう生きていこうとするのか、その基本スタンスがあいまいなままだ。
 95年の夏に帰国してから、3年間、大臣官房に籍を置きました。その前半は、情報通信の法令担当として、NTT再編問題や規制緩和にどっぷり浸かりました。通信自由化から10年たって、第二次の制度改革といいますか、デジタル時代の政策体系を形づくろうという行革です。
 後半は、同じ行革でも、省庁再編でした。厳しい仕事でしたが、結論として、情報通信行政は、地方自治や規制緩和・情報公開等の行政とともに総務省で行うこととなりました。国家戦略としてメディア政策を推進するためには、いいポジションの組織だと思います。
 新しい国家行政組織の中で、ソフト政策を国家行政の柱と位置づけることが必要です。そのための枠組みは、新しい省という一つの答えを出すに至りました。行政サイドのステージが変わりつつあります。私の仕事も一区切りつきました。
 ただ、省庁再編も規制緩和も、行きづまりをみせた社会経済システムを更改するための処方箋にすぎません。近代の閉塞状況を突破するには不十分です。突破のためには、システムの更改だけでなく、フロンティアを生み出すことと、価値観を変えることが必要だからです。
 そのためにはデジタルメディアしかありません。人類にとって唯一のフロンティアであるサイバー空間を開拓することと、認識や表現を一新して自我を再構築することがデジタルの使命です。この二大使命は、偶然にも同時進行していますが、いずれも人類の体質改善のために極めて大切なものです。行革とメディアは、処方箋と体質改善というセットメニューなのです。
 来るべきネットワーク社会では、映像クリエイティビティが人類にとって最も大切な能力となります。その点で日本は優れた能力を持つ国です。特に、ゲーム大国たる日本の子供たちは、21世紀の世界をリードする力を持ち、その責務を負っていると思います。日本にはいい時代が来ています。
 ところが、これからやるべき仕事は、いよいよ重い。デジタル表現を開拓していくという仕事は、百年単位で考えるべき性格のものです。子供の未来を提供していくという仕事は、どっしり腰を据えて取り組むべき性格のものです。しかもコンテントの世界は、ホットでハイテンションです。涙を流して笑い転げ、髪をふり乱して怒り、全霊をかけて静かに悩み、血を流しながら表現する。そういう極めて個人の世界です。
 これをコーディネイトし、表現者のステイタスを上げていきたい。でも、役人は当事者にはなれません。クールに裁断することが職務であって、いっしょになってドロにまみれるのは、たとえそうしたくても、限界があります。定期的な人事異動という現実もあります。官僚は結局、当事者たちからみれば、ノーリスクの傍観者として、へっぴり腰でしかないわけです。
 神戸で地震が起きた際、私はパリでニュースを見ていました。テレビの映像で事態を把握し、何もしていないのに何かに参加したつもりになっていました。しかし、その後、パソコン通信などの情報で震災の状況が明らかになるにつれ、自分が映像の傍観者で満足していたことに気づき、愕然としました。当事者たれ。当事者たれ。それがずっと気になっています。
 実はこの連載と平行して、小説を書こうと試みておりました。「赤」というタイトルです。12歳の少年が赤くうごめくマークの浮かび上がるサイトを残して姿を消した。その赤は、アクセスした人の潜在意識と細胞にこびりつき、その作用で誰も気づかないうちに世の中の姿がほんのり変わっていく、という話です。
 ところが、その基本構成を仕上げた頃に、神戸で14歳の少年による殺人事件が起きました。日本の少年が置かれた状況を見つめ直す必要が生じました。そして、ポケモン事件が起きました。まさに赤い映像がもたらした事件であり、現実が情報社会に向けた試練を投げかけてきました。傍観者として、しろうと小説なんか書いてる場合じゃない。
 さらに、少年がナイフで殺傷ざたを起こしました。少年ナイフ事件などと報じられ、今になってバンド名の由来を聞いてくるマスコミもあったりして、何かこう、自分と現実との因果を感じたわけです。いま動かなければ、そんな気持ちが高じています。
 そんなこんなで、私を強くスカウトする人もいて、よっしゃ、いっちょ飛び込むか、という次第です。いつも蝶ネクタイでヘンな連載してるヤツを放し飼いにできるような官庁を飛び出すのはもったいない。だけど、やるしかないんじゃないか。
 私は官から学へ、官から民へと移動するんですが、どのポジションにいても、デジタル社会の形成というテーマは変わりません。日本は産・学・官の間の人材交流を活発にすべきですが、私は自分で産・学・官の性格をミックスした特殊なポジションのモデルを作ってみたいと思います。
 大臣に辞表を出す直前に、ハラが痛むので病院に行ったところ、脂肪の黒い玉が腸を圧迫しているとのことで、緊急に除去手術を受けました。こぅいうの、「ハラ切って辞める」と言うんですか。役人暮らしで溜まったハラ黒い部分に別れを告げた、と言いたいんですけどね。
 では。
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