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REPORT
総務省  (総務省広報誌)
2003年10月号
寄稿  「デジタル情報通信政策の構築」
中村伊知哉

●構造変化のチャンス
 この夏休み、東京大学で子どもたちの映画作り・アニメ作り教室が開かれました。のべ12日にわたり、自分でデジタル作品を生み出して、ブロードバンドで発信するという試みです。大人は技術と場を与え、コンテンツは子どもが創る、というものです。
 みな初めての体験だというのに、カメラ付きケータイを片手に、写真や絵文字で交信しながら軽々とロケハンをこなします。日ごろアニメやゲームで鍛えているので、キャラクター作りも絵コンテにも、こちらが舌を巻く力量をみせます。世界文明をリードするデジタルキッズたちです。
 ちかごろ日本はクールでポップだという評判を海外から受けています。失われた十年の間にどうやらこの国は地球の子どもたちのあこがれの地となりました。「千と千尋の神隠し」や「ドラゴンボールZ」や「ポケモン」たちのおかげです。未来の歴史書に刻まれる事態です。
 ゲームもアニメもケータイも、デジタル技術をエンジンとする産業です。そしてそれが日本で花開いたのは、目と耳の肥えた消費者や利用者が厚い地盤をなしているからです。利用層の厚さが高い創造力を産みます。そこに日本の強さがあります。これをどう活かしていけばいいでしょう。
 通信の劇的なコストダウンは、世の中を便利で効率的にします。知識は共有化されて、民主化が進みます。生産者から消費者へのパワーシフトが進みます。ほんの少し前には想像もしていなかった事態が一斉に現実と化しています。
 とはいえ耳障りのいいことばかりではありません。イラク戦争では、反戦の動きがネットで瞬時に世界的に連結しました。だが同時に、爆薬はGPSで精確に狙われた地点に落とされ、地上ではウェアラブルコンピュータで武装した兵士がうごめいています。同じ技術が戦争を抑止もすれば推進もするのです。人類はテクノロジーを持て余し気味です。
 24時間ネット空間とつながるユビキタスな環境に住む未来人は、映像で考えて映像で表現するようになるでしょう。世の中の仕組み以上に、認識や美意識といった内面も姿を変えていくに違いありません。
 このあたり、もはや空想の領域です。
 15世紀にグーテンベルクが発明した活版印刷は、3世紀ばかりめぐりめぐって近代国家や資本主義といった概念を生んでいきました。デジタルはこれから3世紀、何を生んでいくのでしょう。アナログの千年からデジタルの千年へ移行する時期にさしかかり、われわれはまだ空想が足りません。
 次の社会をどう展望するか。どう設計するか。その鍵を握る情報通信行政にとっては、またとない構造変化のチャンスです。

●インフラ行政
 情報通信行政は、通信網・放送網といったインフラに関する政策が柱をなしてきました。ネットワークの安価な利用を安定的に確保するという行政の目的はずっと変わっていません。誰がどう整備するか、国か公社か民間かという手法が変わってきただけです。
 ブロードバンドの普及にしろ、ケータイ・ネットの利用にしろ、日本はうまく行っています。世界の最先端です。行政は結果勝負ですから、評価してよいですね。他の行政分野に比べ思い切った規制緩和も進められてきました。
 片や今アメリカは、ネットバブルの崩壊、通信不況に苦しんでいます。今年に入って、競争一辺倒だった通信政策を安定政策へと転換しはじめ、混乱をみせています。通信をインフラというよりビジネスとみるアメリカの伝統に根ざす病状です。行政機構は複雑で、ルールも不明確なままで、実態としても失敗です。
 失敗した行政は叩かれますが、成功した行政はほめられません。日本はもっとほめられてよさそうなものです。
 つぶやいているヒマはありません。デジタル・インフラ政策の本番は待ったなしです。そして、デジタル政策は、過去百年のアナログ政策を転換していくことを迫ります。
 インターネット時代に競争と安定の両立をどう図るのか。デジタル放送のような新しい電波需要をどう保証していくのか。無線LANに見られるように利用者が自分で整備するネットワークと通信事業との関わりはどうなるのか。規制を緩和していっても、10年分ぐらいはたっぷり仕事が待っています。
 例えば昨年施行された「通信役務利用放送法」は、通信と放送の統合インフラを整備していくうえで、世界にも類をみない画期的な規制緩和法です。これからもこうした制度的なグランドデザインが求められます。通信と放送の二分法から、インフラ法とソフト法の体系に移行していくことも一つのアイディアでしょう。提供行政から利用行政へのシフトに沿い、事業法から公衆通信法に回帰するのも一案でしょう。

●コンテンツ行政
 インフラと対をなすのがコンテンツです。十年ほど前から、郵政省〜総務省は、この分野を行政の柱にしようとしてきました。しかし、まだ達成してはいません。それどころか、インフラと違い、行政の対象も目的も定まっていません。
 第一にコンテンツは定義さえ固まっていません。コンテンツと言えば普通、映画や音楽といったエンタテイメント産業を思い浮かべます。でも、より成長が期待されるのは、ネット上の新しいコンテンツです。電子商取引、遠隔教育、遠隔医療、電子政府・自治体、これまで現実の社会で行われていた営みがオンラインのコンテンツとなってくるのです。
 より着目すべきは、個人のおしゃべりやメールです。しろうとの生み出すコンテンツです。デジタルメディアの最大の意味は、誰もが表現者になれることだからです。インフラをどう使うのか、という行政の初期値に立ち戻り、コンテンツの範囲を広くとる必要があるでしょう。
 そもそも日本には総合的なコンテンツ政策は存在しません。通信・放送政策、エンタテイメント産業政策、著作権政策、文化政策、教育・医療の情報化など、省庁ごとの施策はあります。しかし、政府としてまとまりを持った行政目的が見あたりません。
 エンタテイメント産業12兆円を拡大しようというのが知的財産戦略本部などの考え方のようです。でも、これが急拡大し、日本が娯楽天国と化していくとは思えません。政府全体の行政目的とも思えません。現実に今エンタテイメント産業は縮小傾向にあります。
 一方、ケータイやインターネットの市場は拡大しています。家族の声や友だちのメールにならおカネが支払われます。プロのコンテンツよりもアマのコンテンツの方が競争力を見せているのです。いや、仮に今後、産業が不振となっても、国民の表現力が向上して、コミュニケーションが活性化するなら、それ自体、政策として価値があるのではないでしょうか?
 冒頭の夏休み教室は、総務省・(財)マルチメディア振興センターの指導により、NPO「CANVAS」が実施する政策的な取組なのですが、このようなスタイルの施策を広げていくのも一つのモデルでしょう。
 ハリウッド的なプロの重厚長大エンタテイメント産業政策を堅持するのか。しろうとポップな軽―いコンテンツを含むコミュニケーション政策へと重心を移すのか。アメリカ追従か、日本型か。デジタル時代のコンテンツ政策は、こうした基本的な考え方の整理から始めるべきでしょう。
 遣隋使の昔から、日本は先進国を後追いする政策を得意としてきました。でも、コンテンツ政策は、国のかたちを問うもの。政府横断的に、日本の生きざまを考える時期です。

 インフラとコンテンツというタテ糸とヨコ糸からなる情報通信行政は、政府内で確固たる位置を占めるべきでしょう。この行政を政府から独立させる意見がなお残るようですが、逆に、デジタルへの転換期のいま必要なのは、国家として、政治として、この行政をいかにしっかりと内部化するかではないでしょうか。

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