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BOOK
マルチメディアのある日本
 ◆「電脳への提言」 97.4.15 アスキー刊
1 マルチメディアとは何だったのか。

 と、過去形にしたのは、マルチメディアはもう終わったからだ。ほんわり甘いイメージは90年代初めだけのことで、その後、インターネットをはじめとする厳しい実態が生まれてきたからだ。もはやブームではない。
 メディア多様化や地域情報化といった路線が混沌とする中、バブルがはじけた。アメリカからの高波も襲ってきた。マルチメディアは、メディア関係者が次のステージへステップを踏むための気合いであり、デジタルへの一点突破に向けた号砲!だった。
 そしてメディア産業は64兆円になったという。コンピュータなどのハードを除き、ネットワークやソフトだけで33兆円だという。通信だけで10兆円、移動通信だけで4兆円だという。日本経済を牽引する。サミットでも、情報通信は経済成長と繁栄の原動力だと宣言されている。メディアは世界経済の主役に躍り出た。
 ネットワーク33兆というのは、一日に1000億のビジネスが生まれているということだ。けっこう大した仕事だ。でも、待てよ。たしかパチンコ産業は30兆円だとか言ってたな。パチンコも原動力なのかな。戦後日本は経済を宗教としてきた。産業の発展は最重要事項だ。そして経済にとって数字は命だ。だからといって数字だけ見てると間違うこともある。メディアは、数字より大切なものでできあがっているからだ。
 それは何か。暮らしが豊かになる。便利になる。ネットワークでつながって、仲良くなって、平和になる。うん、大切だ。だけど今、メディアが大切だというのは、そんなことなのだろうか。どうも、矮小で当たり前すぎる気がする。

2 今を見つめ直すことが必要だ。

 だって、近代は閉塞感で充満してるというじゃないですか。産業イデオロギーは終了した。エネルギーは限界を露呈した。科学は細分化されつくした。戦争は失せた。革命もなくなった。近代が築いてきたシステムがみな崩れている。進化という命題は、支配力を失っている。
 そして「私」のみが残った。かつて近代を迎えた人々は、宗教から離脱し、自我の形成に躍起となった。今の閉塞を払拭するには、私は新たな自我を求めざるを得ない。私は、見聞きし、主張する。喜ぶ。怒る。哀しむ。楽しむ。思う。悩む。未来を解くカギは、そうした個々の体験や思念、感情の内側にあるはずだ。
 突破するのはメディアしかない。メディア技術は、太古から培ってきた人類の認識や思考の様式をバージョンアップし、体験や表現を一気にぬりかえる。その力を借りよう。そうすれば、モノやエネルギーを消費しながら煙を吐いて走ってきた20世紀型の工業社会は、知恵や情報という無限の資源を元手として、知恵や情報を生産する情報社会に転換できる。
 だから、マルチメディアはブームでは困る。パラダイムとかいうやつをひっくり返すためには、精神や肉体と同化するほどまでに定着してもらわなければならない。マルチメディアの名の下に、個別の現実メディアが現れて、マルチメディアというあいまいな名前を消し去ることが必要だった。
 幸いにも、ひとまずインターネットという具体例が登場し、理念から実態の段階に移った。でもやはり、インターネットはブームでは困る。もっと個別の実態を広げ、定着させたい。
 とりあえずデジタルは、80年代のメディア多様化路線を融合路線へと転換させ、21世紀を引き寄せた。ネットワーク、プラットフォーム、コンテントというメディアの3要素は、それぞれデジタルに収束しつつある。3要素どうしも、通信と放送の融合、放送のデジタル化という形で融合し、次のステップを踏もうとしている。今度は、人類サイドがこれを手に事態を突破する番だ。

3 どの国も本気である。

 アメリカには、インターネットとPCとハリウッドがある。インターネットのホスト数は日本の20倍。PCの普及率も2倍以上だ。コンテントは80年代にハリウッドが世界を席巻していた。
 競争の中で培ったこの強い産業力を世界に広げることがアメリカの戦略だ。だから各国に市場開放を要求する。単純なことだ。民間が強いので政府は前面には出ない。だが、PCにしろインターネットにしろ、もとは軍事用に開発した技術が民生に流出したものだ。カーナビのGPSのように今も軍事物資を使っているものもある。国家戦略なのだ。
 他方、中央集権・官僚国家のフランスはどうか。インターネットの普及は日本より下、PCやCATVの普及も日本並み、テレビ番組は輸入に頼り、栄華を誇ったフランス映画もハリウッドにやられて元気がない。
 ただし、ミニテルがある。世界で初めて市民レベルに浸透したインタラクティブ画像メディアだ。650万台という普及度よりも大切なのは、2万を超えるIPサービスが熾烈なコンテント競争をしていることだ。どんな情報が求められ、どうやったらゼニが集まるか、10年かけて学習してきた蓄積は、貴重な国家資産である。これでインターネットを迎え撃つ。
 とはいえ、全般にフランスはマルチメディアに冷静だ。ネットワークのインフラも電波も国営企業ががっちり押さえているからだ。技術やニーズをじっくりチェックして、ここだと思ったらアクセルをふかす。競争とは対極のインフラ的哲学だ。
 バックボーンは国家である。ことにコンテントに関しては、国が前面に出て、文化をタテに防衛を図る。93年末のガットAV交渉でフランスは、映画は産業ではなく文化だと大見得を切り、映像産業の開放を迫るアメリカをぎゃふんと言わせた。民族アイデンティティをタテにアメリカに刃向かうのは、並の根性では腰が引ける。
 フランスでは国家当局がテレビの番組をぜんぶ録画して、国営アーカイブに保存している。そこでは3Dなどのデジタル映像技法の開発も進めていて、蓄積した映像をデジタル化してインターネット利用させることももくろんでいる。本気、だ。
 アメリカ型、フランス型ほどの鮮やかな色彩はなくとも、他の先進国も同様に戦略的に取り組んでいる。アジア諸国も、インフラ整備の遅れをバネに国家主導で最先端の技術を導入して、一足飛びに先進国のメディア状況を追い抜こうと意気込む。

4 では日本はどうするのか。

 PCや競争といったアメリカ的な持ち物もなく、フランス的な権力の発動もない。どうも誤解している人が多いが、実は日本はメディア規制がとてもゆるい国だ。ところが、日本はマルチメディアに出遅れているとの指摘が多い。本当にそうか?日本は持ち物がないわけではなく、持ち物をどう活かすかという戦略に欠けているだけではないだろうか。
 例えばテレビ。例えばゲーム。アニメ。マンガ。カラオケ。家電。新聞。カネ。このテレビの国は、コンピュータの国であるアメリカ型のやり方をそのまま移入してもすんなりとは行かない。日本には日本のやり方があるはずだ。
 例えば、ゲームやアニメといった世界を圧する競争力のある分野をどう活かしていくか。ハリウッドに伍す展望が拓けないだろうか。ここでアメリカと日本の違いは、映画とゲームのパワーの差ではなく、映画が大事だと思っている国の風土と、ゲームを大事だと思っていない国の風土の差にある。
 例えば、テレビという家電システムを軸に、インターネットも融合して、デジタルのコンテントが流通する状況をどう作るか。日本では衛星デジタル放送の成否が他国に増して重要なポイントとなる。
 ちなみにヨーロッパはデジタル化を多チャンネル化の手段とみている。80年代半ばまで国営テレビ中心だったヨーロッパ大陸は、まだチャンネルを増やすことに熱心だ。一方、多チャンネルが定着したアメリカの放送業界は、デジタル化をコンピュータ化の手段とみている。放送の競争相手は通信だ、というのが合い言葉になっている。日本の業界はどうみているのだろうか。
 どうも日本はあいまいだ。 

5 近代の集大成であるマルチメディアが近代を超克する。

 唯一のフロンティアであるメディアは、人類の表現や思考、そしてリアリティーといったものをくつがえす力を持つ。時間や空間、エネルギー資源といった従来の限界を打破するのだ。
 などとリキむこともないのだが、とりあえず便利だ。産業、政治、暮らし、あらゆる活動をやりやすくしてくれる。バーチャルモールでネクタイを選ぶ。電子マネーで支払う。ネット上の会社に勤める。学校に行く。病院に行く。コンサートに行く。
 だけど、それでうれしいんだろうか。いったい誰が便利になったんだ。気がつけば、オヤジの特権は奪われていた。ケータイで会社に監視されながら働いているうちに、かあちゃんと子供がメディアを獲得していたからだ。情報をむさぼる彼らがすべてを占領してしまっていた。オヤジしか知らなかった華やかなスポット。夜。あやしい遊び。家の中にも居場所はない。新しいメディア階級が台頭してきたのだ。いまやホントのエグゼクチブとは、ケータイを捨て、情報を遮断できる人のことを指す。
 LANで中間管理職が要らなくなってリストラが進んで競争力がつく。会社には便利だ。こっちにとっちゃ、恐怖の機械だ。かあちゃんも子供も怖いから、ちゃぶ台をひっくり返す度胸もなく、まして産業革命時のラッダイト運動や昭和初期の反トーキー運動みたいな抵抗もなく、今日も私はひきつりながらパソコンの前にいる。
 明治からずっと、豊かな私を夢見てきた。身を削って働いてきた。そしたらとても機能的で便利になった。静かで清潔になった。効率的になった。みんな都会に集まって、狭苦しい。スピードは上がり、ムダはなくなった。で、豊かか?夢想してきた豊かさというのは、もっとめくるめくゴージャスな世界じゃなかったか。ゆったりとして、ムダだらけで、必然性のないことを許す環境じゃなかったか。メディアは、それを実現してくれるんじゃないのか。
 おかまいなしにインターネットでは市が並び、電子の商取引が行き交っている。ただ、まだそこで大儲けした人はいない。みんなこぞって集金方法を手探りしている段階だ。どうすりゃゼニが取れるか、商売の根本が成立していないのだ。サイバーなコミュニティができあがるのはまだ先だ。今のうちに、メディアへの思いをぶつけておくべきである。

6 言うまでもなくマルチメディアは映像ツールである。

 文字や音声を伝えるツールとの違いは、便利だということではない。言語による論理表現とは別体系の思考・表現様式を取り戻すことにある。映像でものをみて、たぶん映像でものを考えていたそのむかし、思いを伝えるために言語を生み、文字を生み、メディアを生んだ。奇跡的なテクノロジーの開発が相次いで、メディアは完成に向かう。でも結局、言葉では気持ちを伝えきれない。映像で考え、映像で表現するというのは、情念を自在に扱おうとする試みなのだ。デジタルはアナログのためにある。
 だから、万人のためのものなのだ。言語の論理に長けていることが必要だった従来のメディアとは異なり、感情を共有するための道具には参加資格は要らない。電子メディアは無尽蔵の知識を与えてくれる。だが、まだ笑いや怒り、感激!といったアナログなものをテリトリーにはしていない。私にとってPCは家来か教師のどちらかで、まだ友達ではない。PCが文房具になり、産業も生活もスタイルが変わっても、自分が心に抱く大切なものとか、情緒のスタイルといったものはまだ何も変わらない。
 映像ツールと呼べるためには、速度も容量もまだこれからだ。それに、映像を視聴するだけでは、言語能力が衰えるだけだ。映像を作り、出すためのものでなければいけない。キーボードはビデオカメラに取り替える必要がある。映像表現の訓練も要る。まだまだこれからだ。
 フランス人は英語を嫌う。言語はアイデンティティーだからだ。何語で考え、何語で表すかは、民族の根本と考えているからだ。インターネットの普及に保守主義者が反発するのはそのせいだ。
 マルチメディア文明では、映像は世界語になる。ところが映像の技法や文法をハリウッドが握ることとなると、それは人類のアイデンティティーを薄めることになる。固有の血の色が薄くなる。だからフランスはもっと強く反発する。

7 だから日本のアニメとゲームが大切だ。

 戦隊シリーズ、少年・少女格闘モノ、RPG、各国の子供たちは親の反発をよそに、日本のクリエイティビティにすっぽりハマっている。アメリカの映像テクノロジーに他の誰が競合できるのか。文化や表現の多様性を追求する勢力は他にあるのか。
 これは何も最近になって具備した能力ではない。日本の伝統社会、文化の中でずっとむかしから培われてきた才能なのだ。'50年代から60年代前半の邦画のおかげで、日本の映像クリエイティビティの高さは世界に証明済みだが、そうした才能が、より自由で機動的なフィールドを求めて、順次、マンガやゲームの世界に流れ込んできたわけだ。
 たしかに、映画やマンガが時間をかけて熟成した表現に対する業の深さに比べたら、アニメやゲームはまだ血が薄い。悪い意味でのこども相手の域を脱していない。これからだ。志を持て。表現が爆発するための臨界点は近い。
 こうした才能は今、世界に羽ばたいている。フランスやイタリアといったかつての映画大国からもクリエイターがハリウッドに流出し、才能の空洞化が問題視されている。ただ、日本の天才が国際社会で活躍するという動きは、まだ国際化を達成していない日本にとって、望ましい姿と見るべきかもしれない。
 クリエイティビティは、オーディエンスの質と層の厚さが育む。路上でゲームを奪い合う光景は、他国でも見られるようになった。だが、朝は通勤電車で自らジャンプをむさぼり読む。夜は仕事で強制的に映像カラオケ表現の腕を磨く。コブシを回せ。そんな国民訓練がまかり通る国は日本しかない。そうやって鍛えた映像処理能力は、重要な国民資産だ。天才的な表現者が誕生するためには、こういう土台が必要なのだ。がんばろう。
 さて、インターネットは表現ツールだ。音楽や絵画といったアートも流通しはじめた。でも、インターネット独自の表現はまだこれからだ。ネットワークでしか表現できない新しいアートを創造しなければならない。それは、リンクという思想を体現するものかもしれない。インタラクティブな共有型の作品かもしれない。観賞と製作をシンクロさせる幻想体験型のアートかもしれない。
 いずれにせよ、大切なのは、それは子供が開拓していくということだ。他の表現分野で花の咲かない大人たちがネットのコミケに寄り集まっても展望は開けない。これから表現を始めようとする子供たちが、いきなりインターネットを場として選び、才能を爆発させる。映画もマンガもロックも漫才もどの様式も、そうやって表現の爆発期を迎えてきた。ネットワークもそのはずだ。是非、その瞬間に立ち会いたいと思う。
 ネットワークは可能性を増殖させていく。視聴覚だけでなく、五感も体感も総動員させて、「リアル」を超えた「リアリティー」を提示してくれるだろう。そして、想像力のままに、「バーチャル」という新しい活動領域も切り開いていってくれるだろう。これでようやく現実は、現実を超えられる。人類は、マルチメディアで自由を獲得する。

8 あっ、自由、なんて言ってしまいました。

 不用意ですね。誤解を招きますね。例えば、インターネットは自由な空間で、みんなが融和するという。本当か?ぼくにとって自由な場所は、悪者にとっても自由な場所じゃないのか。ボーダレスで、国家からも自由なコミュニティというのは、ひょっとすると、麻薬の人やテロリストのような、国から逃れたい人が真っ先に集いたがる空間じゃないのか。
 つながって、理解が進み、仲良くなるという。本当か?つながった場合の効果は、楽観しきれるものなのか。知らない間は平和だったのに、わかり合うことでアラが見えたり対立したりするってことはないのか。男と女のように。
 自由というのは、叫び、血を流し、勝ち取るものではなかったのか。そのわりに、どうもネットワークの空間は、スキがありすぎはしないか。96年、各国はネット上のコミュニティに介入しはじめた。ポルノはいかん。ネオナチはいかん。詐欺はいかん。とつぜん目の前に歌舞伎町が現れた。それはポップな場末なのか、暗黒のスラムなのか。見きわめのつかないまま、自由という名の無防備都市は、悪意と権力の両者から猛攻を受けている。
 産業活動はボーダレスで国と遊離する。民族も宗教も分散している。戦争はない。すると、国家のアイデンティティは、通貨しか残らないかもしれない。EUの通貨統合がままならないのは、そのせいかもしれない。電子マネーで便利になるといっても、そうすんなり行くまい。まして、軍事と密接な暗号がそのカギを握るとなればなおさらだ。
 経済や文化、民族や宗教といった面での対立だけではない。言語族(メール族)と映像派(ビデオ派)の対立も起きるかもしれない。世代間の対立もあり得る。マルチメディアは子供のものだ。ネットワークで連帯して、最先端の知識で武装した連中は、ぼくみたいなスタンドアロンの経験主義世代を駆逐しようとするだろう。
 これまでも、社会は、そんな経験をしどろもどろくりかえし、行ったり来たりしながら、じれったく、なんとかかんとか作られてきた。ネットワークの社会も同じはずだ。デジタルという融和のためのツールは、新しい対立を強いる。きっとそれが未来を形づくる力となる。
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