1章 顔と顔

1-1 赤と白

 キレのいいギターが流れている。腕のいいジャズバンドだ。しかしその演奏は参加者の話し声でかき消されている。150人ばかりいるだろうか。イベント用の大型テントは活気で満ちあふれている。ビールを手に、コーラを手に、ワイングラスを手に、いくつもの人だかりができている。談笑する人、議論する人、テーブルでペーパーをやりとりしている人。
 通りすがりの人がのぞけば、いぶかしがるだろう。あまりにもバラバラな集団だから。男に女。若者に初老の紳士。国籍もバラバラのようだ。いかにも学生、いかにもアーティスト、いかにも西海岸のハイテク系、いかにも日本のサラリーマン。
 これはMITメディアラボのスポンサー会議の一コマである。メディアラボとスポンサーで構成されるコンソーシアムの1つ、「デジタルライフ」の定例会議のさなか、パーティーと夕食が開かれているのだ。このコンソーシアムには50のスポンサーが参加していて、その代表が年二回、マサチューセッツ州ケンブリッジ市のMITに集合する。通信、電子・電機メーカー、ソフトウェア、金融、出版、広告、食品、業種もさまざまだ。
 教授は10人ぐらいいるだろうか。その分野では世界の第一人者を誇る者ばかりだ。カリスマ集団と言ってよい。デジタルおたくなら、その著書を持ち込んでサインをねだりたい相手ばかりである。学生もたくさん混じっている。明日のカリスマたちだ。
 今日はパーティーが始まるまで、テントの隣のビルの中で、ずっと議論をしていた。この半年間の研究成果を紹介したり、今後のラボの展望を説明したり、ゲストを交えたパネル討論を行ったりしていた。だが、本番はこれから。このパーティーだ。教授、研究生、学生、職員、スポンサーが入り乱れてのコミュニティが、とっておきの情報を交換しあって息づく。MITメディアラボとは、このコミュニティのことをいう。
 人波をかきわけて、カウンターにたどりつく。「赤にしますか白にしますか。」赤は何ですか。「今日は、ナパバレーの他は、ニュイ・サン・ジョルジュです。」ブルゴーニュですね、いつもいいワイン出しますね。
 そろそろ暗くなってきた。今夜のメインはチキンのソテーだ。ラボはおもてなしには気を配る。食事や飲み物はその最たるものだ。食べること飲むことはコミュニケーションの土台であり、文化の基本である。料理やワインで示すラボの表現を受け止めつつ、スポンサーたちも同席する相手をみつくろってテーブルに着きはじめる。
 それにしても統一感というものがない。服装もまちまちだ。センターベンツの三つボタン紺ブレに淡いブルーのボタンダウンというアイビーファッションの教科書に出てくるような人がいるかと思えば、ポロシャツにチノパンもいる。グレイのスーツに幅広ネクタイに肩からかけた旅行カバン。野球帽にサングラスに登山靴。黒のタートルネックに黒のスーツ。Tシャツに短パンの若い女性。寒くないのだろうか。ツィードのジャケットにコーデュロイのパンツのヒゲおじさん。暑くないのだろうか。
 そうは言ってもルールめいたものはある。例えばネクタイ姿の学生はいない。プログラミングやハンダづけしていた手を休めてパーティーに参加しているのだから当然である。ネクタイは組織に忠誠を示すメディアであるから、会社を代表してきたスポンサーにはちらほらと見られる。日本からの参加者は10名ていどだが、その多くはネクタイだ。
 一方、ホスト側の教授には、スーツもいればポロシャツもいる。いつもよりフォーマルではあるが、バラバラだ。単に自分に似合うものを着ている。これが法学部やビジネススクールの集まりなら大半がスーツだし、西海岸ならノータイが制服である。ここではそんなことは個人に委ねられる。東部エスタブリッシュメントの本拠地に西海岸のカウンターカルチャー的な雰囲気が溶け込んでいるというのか、アメリカ独立の地ボストンの血とでもいうのか、この光景はさまざまな解釈で眺めることができる。
 その中で、いつもストライプのシャツに上質のネクタイ姿の紳士がいる。ニコラス・ネグロポンテだ。MITメディアラボ創設時から所長を務めてきた。そのダンディないでたちと、ギリシャの神秘をたたえたカリスマの雰囲気はずっと変わらない。いまはチェアマンという会長職のような肩書きに変わり、以前にも増して精力的に世界中を飛び回っている。いつも地球のどこにいるのかわからないほど高速で動いているが、今日はこのテントの中でスポンサーたちと語り合っている。
 日本から来たスポンサーを紹介する。広告業界の彼がネグロポンテに差し出した名刺に「メディアラボ課」とある。自分の会社の組織の名前にメディアラボとつけたんだそうだ。ネグロポンテ「ラボに名前の使用料を払ったか?」周囲にいる人がどっと笑う。冗談が飛び出したらきちんと笑うというのはアメリカの決まり事だから、きちんと笑う。
 「使用料を払ったか?」には二つの意味がある。メディアラボという固有名詞はMITが本家である。だから使用料を払えという権利がある。そして、時を経て一般名詞になった。だから疑いなく冗談として認識される。それだけの名声を蓄え、世の中にメディアラボを認知させた自負があるのだ。
 だがそこに漂う名声は、下手をすると、慢心と停滞をもたらす。その危険性を一番知っているのはネグロポンテ自身だ。常に変化させること、動き続けることをモットーにして、メディアラボの再構築を図っている。
 ウェアラブル・コンピュータを着けたお姉さんが歩いている。おでこにカメラがついていて、腕に装着したディスプレイに何やら文字が浮かんでいる。「パーティーの模様をネット中継してるんです。離れた場所にいるディレクターたちが私の腕に指令を送ってきています。」ここのコミュニティと、オンラインのコミュニティをリンクするお姉さんなんですね。
 リアル空間とバーチャル空間を結合すること。デジタルな生活のモデルを実践すること。この歩くメディアは、ラボが追及する研究とスピリットのごく一端を示している。
 チャールズ川のむこうに大きな月がかかっている。
 賑やかに、夜がふけていく。



1−2 三画と四角

 ボストンは京都と姉妹都市である。アメリカ独立戦争が勃発した地として、アメリカの古都としての地位を得ている。ボストン茶会事件や独立時の英雄たちの墓などの名跡。英国風の落ち着いた町並み。チャールズ川の穏やかな流れ。豊かなシーフード。全米からの観光客がとぎれない。
 京都とボストンは、古都としての関係だけでなく、学問の町である点でも共通している。こちらの看板は、アメリカ最古の大学で、文系の名門、ハーバード大学と、理系の名門、MITの両雄だ。いずれも行政区域としてはチャールズ川をはさんでボストン市の隣に位置するケンブリッジ市に属する。他にもこの地区にはボストン大学、ノースイースタン大学、バブソン大学など、有名校がひしめいている。
 そこから生まれてくる知識、技術、人材がバックボーンとなって、ハイテク系のベンチャー企業が集積している点も京都との共通点だ。どちらも、国のアイデンティティーをなす歴史・文化と、最先端の技術・ビジネスとが融和した町である。
 MITの設立は1865年。当初は15人1クラスでスタートしたという。2002年時点で、学生数1万人、教授1100人。多数のノーベル賞受賞者を輩出し、自然科学系では世界のトップに君臨する大学としての地位は揺るがないものになっている。日本では1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進教授がいることで知られる。
 メディアラボの建物は、その利根川教授のいるビルからエイムス通りを隔てた向かいにある。横にぺたんと広がった直方体で、地上4階、地下1階となっている。パリのルーブル美術館の入口にあるガラスのピラミッドを設計したI.M.ペイの手による。この建物には、E15という通し番号が振られているが、正式にはウィズナー・ビルディングという。メディアラボ設立当時のMIT学長、ジェローム・ウイズナーの名を冠したものだ。
 1階のロビーを入ると、オープンな空間にたっぷりと光が射し込んでいる。鉄骨のオブジェの向こうが天井まで吹き抜けになっている。白い壁には淡いモンドリアン風の色使いの細いパターンがタテヨコの格子状に走っている。この壁じたいがアートをなしている。ケネス・ノーランドのデザインだ。
 壁に用いられている鮮やかなカラー・パターンは、メディアラボのロゴとしても採用されている。基本パターンは、左から、紫、緑、白、赤、オレンジ、青、黄、黒。各メンバーの名刺にもそれに似たパターンが印刷されているのだが、そこは多様性がモットーのメディアラボ、一人ひとり色の組み合わせとパターンが異なる。ラボ専属のデザイナーが決める。私の場合、昨年まで紫と黄と白と赤だったが、この間からは、赤と緑と白と青になった。
 メディアラボの設立は1985年。活動は80年にスタートしており、ビルが85年にオープンした。不思議なことに、建築学部に属する。創設者のネグロポンテが建築系だったことに由来する。だが、それは重要なことではない。設立当時、ネグロポンテはアーキテクチャ・マシン・グループを率いて、人とコンピュータの新しい関係を設計していた。それがメディアラボの母体となったのだが、そこに当時およそ学問として一つにまとまるとは思われなかった多様な領域の精鋭が集まってラボの形が作られることになったのだ。
 創設時のメンバーには、ネグロポンテのほか、人工知能の父マービン・ミンスキー、数学と学習の世界的権威シーモア・パパート、世界初の3Dホログラムを開発したスティーブン・ベントン、電子音楽のパイオニア、バリー・ヴァーコウ、デジタルテレビの提唱者アンディ・リップマンらがいる。研究領域もバックグラウンドも全く異なる教授たちが、未来のメディアの可能性を見据えて結集した。従来のワクを打破して、自由に研究を進める梁山泊ができあがった。
 メディアラボ設立には日本企業の貢献も大きい。スポンサーを募るに当たって、従前のMITのお得意様ではない資金ルートを開くことが宿題として課せられたそうで、その答えが映画・出版産業と日本企業だった。当時の日本のハイテク系は、貿易摩擦でアメリカから叩かれるほど好調だったこともあり、多額の寄付・出えんが寄せられた。メディアラボのビルの三分の一程度は日本からの資金でまかなわれたという。
 しかしそのビルも今では手狭になってきた。メディアラボの抱える課題は?と質問すると、異口同音に、「スペース」という答えが返ってくる。隣に新ビルの建設を進めているが、それまでの間、4チームが近くのビルに間借りして当座をしのいでいる。
 メディアラボの教育プログラムのコース名は「メディア芸術科学学科」だ。設立時の編成が学際的で、学問領域の融合がテーマの一つであったのだが、特にアートとサイエンスの融合は代表テーマである。現にこのビルの1階には「リスト・ヴィジュアル・アートセンター」という美術ギャラリーが同居している。
 設立以来、メディアラボはデジタルの先端を開拓してきた。映像や音声のインタフェース技術、圧縮技術、インテリジェント・アニメ、パーソナル化された電子新聞など、マルチメディアを支える技術を先導してきた。MPEG設立への参加やデジタル放送の提唱などのように、技術政策や政治的な進路にも指針を与えてきた。
 エンタテイメントやニュースだけでなく、さまざまな表現や活動がコンピュータやネットワークを通じて行われるようになる。オーディオビジュアルやバーチャル・リアリティーに関する当時のビジョンは、インターネットで実現した。その期間に、メディアラボはするりと姿を変え、研究領域をシフトしてきた。ウェアラブル、タンジブル、ユビキタス。あるいは、ナノテク、バイオ、そしてロボット。インターネットの次に来るデジタル世界を思い描いて、その実現に邁進しているのだ。
 ネグロポンテの後を受けてメディアラボの所長になったウォルター・ベンダーは言う。「メディアラボの技術の中核は、学習、認知、表現の三つ。これは今も変わらない。変わったのは、その技術の適用領域だ。」
 デジタルは急速に適用領域を広げ、経済や生活文化の全般を覆いつくす。その歩調よりもリズミカルに、メディアラボは進化していく。




1-3 ボールと壁

 青と緑の格子模様が目の前に浮かんでいる。ガラスの壁から立体が飛び出している。近寄ってみると、そんな立体はない。透明の膜に印刷されたホログラフィーだ。クレジットカードに印刷されているアレだ。設立以来メディアラボはホログラフィーで名をはせていたが、その技術は健在である。
 研究員のスティーブンが手招きする。「この最新技術を見てみろ。」額の中に卵を装飾した置物がある。だが手に取ると、ぺったんこの紙だ。まるで実物が埋め込んであるように見える印刷物である。
 「いやそれじゃない、最新はこっちだよ。」粗いゲーム画面のような自動車のホログラフィーだ。左右に視線を移すと立体に動いて見える。「上下に見てみろ。」上からは俯瞰され、クルマの底の構造も見える。左右だけじゃなくて上下も立体になったんだ。そうか、下からのぞけるアイドルの映像ができるわけだな、すると・・・「何がおかしい?」
 スポンサー会議のオープンハウスである。ラボ全体の半年間の成果をスポンサーたちに見せているのだ。スポンサーたちはラボ中の部屋を歩き回る。どの学生も自分の研究成果を一生懸命デモしている。「見ていってください!」学芸会のように部屋を飾って人を呼び、オーディションのように自分を表現する。
 不倫のニオイがする。女性が二枚目によろめいている。メロドラマだ。テレビの画面にリモコンを向ける。すると女性の着ている服の値段や男が持っている本の情報が同じ画面にポップアップする。「動画にデータのリンクを張っているんです。」テレビがパーティーの画面に変わった。魚料理がふるまわれている。そこをクリックすると、魚を調理する画面に変わった。その魚をクリックすると、漁に出かける船のシーンになった。「動画と動画をリンクする技術です。」
 隣に大きなスクリーンが垂れ下がっている。野球の試合が映っている。その前にあるソファにだらしなく座っている学生が、テニスボールをスクリーンに投げた。ぶつかったとたん、テニスの試合に変わった。バスケットボールを投げた。NBAの試合になった。
 その横にあるガラスの壁を女子学生がノックした。ノックした場所に、四角い画面がポップアップして、動画が流れ始めた。「振動センサーとディスプレイを結合したんです。」
 軽い曲が聞こえてきた。廊下の向こうに、黒いピザのようなものをこちらに向けているヒゲの男が立っている。ポンペイ君だ。その黒ピザを横に向けたとたんに、音が聞こえなくなる。音をレーザー光線のようにピンポイントで飛ばす特殊スピーカーだ。壁に向かって音を発射すると、壁の方から音が聞こえてくる。誰もいない壁から、ヒソヒソささやいてくるようなデモをしてみせ、そうとは知らず壁の近くを歩いている人がギョッとしている。
 「このオーディオ・スポットライトを使ったら面白いイベントができると思う。」小型化して、ゲームに組み込んで家庭に持ち込んでも面白そうだね。「もうこれを組み込んだクルマを試作してる会社もあるよ。」
 スポンサーも真剣である。オープンハウスの時間は3時間しかない。デモしているプロジェクトは数十に及ぶ。一人ひとりの天才が見せている研究の内容は深い。投下した資金を回収できるようなプロジェクトはあるか。自社の商品化につながる成果はあるか。本社に報告すべき事項は何か。
 自社の新テーマを見つけられるか。What's new? ライバル社は何を持ち帰ろうとしているか。デジタルの次のトレンドは何か。誰か自社に連れて帰りたい人材はいるか。来年もスポンサーとして継続すべきかどうか。来年はもっと深いスポンサーシップを結ぶべきかどうか。ある者はメモを片手に、ある者はカメラを握りしめ、ある者はビデオカメラを回し続ける。
 「こんにちは。」やあジェームス。彼は動画の編集ツールを作っている。韓国系で、英語はネイティブ並みで、札幌で三ヶ月暮らしたというだけで日本語もペラペラだ。こっちは3年もアメリカにいるというのに英語がおぼつかず、ズキズキと差を感じる。
 「ウェブで編集できるようになりました。」ビデオのクリップをサーバに放り込んでいって、それを選んで、取り出して、組み合わせて、編集するという作業を、簡単でエレガントにできるシステムだ。いろんな人が動画を作って、共有して、編集して、表現する。映像サイバー空間で共同作業をすることがネットの本質になっていくが、これはそのためのツールになり得る。
 「フリクリ、どうもありがとう。」そういえばこの間、彼に頼まれてアニメのDVDを東京で買ってきたんだった。あのアニメすごいね、世界最高だよね。「こんど、千と千尋の神隠し買ってきて。」オーケー。
 別の部屋ではコンピュータ端末がオンラインの画面を映している。サイバー空間では買物もできるしニュースも読めるし探し物も簡単にみつかる。仕事や暮らしはネットに組み込まれた。だが全ていちいち私が操作するのは大変だ。そこで私の代わりにウェブの海を泳いで情報を集めてきたり、相手とかけあったりしてくれるのがエージェント・ソフトである。
 「買い手エージェントと売り手エージェントどうしが交渉するソフトです。」私の代理人を務めるには、私が信頼できないといけないね。「主人の好みやクセを知った上で行動するプログラムなんですよ。勝手に動き回るんです。」
 勝手に動き回ること。勝手に動き回ること。「知性を持った犬が働きます。」スクリーンに、テレビゲームのような画面が映っている。犬が牧場のヒツジを追っている。犬もヒツジも勝手に行動しているように見えるが?「人工知能で制御されてるんです。」これもエージェント技術だな。「ストップ」あ、犬が言うことをきいた。
 こちらのスクリーンには、アニメの等身大の女性が立っている。学生に向かって身振り手振りで不動産の説明をしている。「ホントのエージェントってわけです。」学生がふと片手をかざして何か話そうとすると、アニメ女性が話を止めて聞こうとする。「私のジェスチャーを理解するんです。」そうして二人の自然な対話が始まった。楽しそうに。



1−4 平面と立体

 「いずれ、パーソナルコンピュータはみんなビデオプロセッサになるでしょうから、お互いに映像を送り合えるようになりますよ。あなたが自分で編集したものをおばあさんの誕生日カードにしたりするでしょうね。」スチュアート・ブランドの87年の著書「メディアラボ」にあるこの言葉は、予想ではない。未来の事実である。
 そして、その事実は、10年あまりで実現した。しかも、そのような技術が「開発」されたというのではない。いまや主婦でも映像クリップをメールに貼り付けたりウェブに掲載したりしている。すっかり現実に普及した点に意味がある。
 メディアラボはデジタルの技術を切り開いてきた。立ち戻ってみよう。1985年にメディアラボが設立された頃、アメリカではAT&Tが分割されてベビーベルが誕生した。日本では電電公社がNTTに移行するとともに通信自由化が断行された。やっと電話の競争が始まろうとしていた。黒電話だけでなくカラフルな電話機がお店で売られるようになった。ISDNが実現すれば、ファックスを送るスピードが速くなると期待されていた。
 日本ではやっとCATVがビジネスとして立ち上がり、民間衛星も打ち上げられようとしていて、いよいよハイビジョンが見られるようになるとの期待があった。マッキントッシュという、やっとパソコンと呼べる代物が登場したが、一般にコンピュータはまだ高かった。インターネットも携帯電話も、まだごく一部の専門家かお金持ちのものだった。まだかなりアナログな季節だった。
 メディアラボは当初からデジタルを唱道した。マルチメディア技術が主要課題だった。インタフェース、圧縮、編集といった技術を矢継ぎ早に開発していった。文字と映像と音声とデータを一体に扱うマルチメディアは、パソコンの高度化、テレビのインタラクティブ化を通じて、80年代後半から急速な普及をみせていった。そして、インターネットが爆発し、世界はデジタルでつながった。
 映画・テレビの映像産業、新聞や本などの出版産業、そしてコンピュータ産業の3つのメディア産業が融合する。当時ネグロポンテは盛んにこの融合論を唱えていた。インターネットにより、かなりの部分が現実となった。電子新聞、電子出版は一般化し、映画やテレビもブロードバンドで見られるようになった。AOL-タイムワーナーのように、エンタテイメントとネットビジネスを垂直統合する巨大企業も出現した。
 アナログの巨頭であるテレビをデジタル化することについてもメディアラボは急先鋒だった。日本のハイビジョンに異を唱えたことでも知られる。画面のタテヨコ比なんて、あらかじめ基準で縛らなくても、コンテンツによって画像の大きさを変えられるようにすればいいじゃないか。画質のきめ細かさだって、ソフトをダウンロードすることで変えられるようにすればいいじゃないか。
 当時、メディアラボが仕掛けた議論をきちんと理解した関係者は多くないはずだ。だが、インターネットのストリーミング・ビデオでは、画面の大きさはコンテンツごとに自分で変えられるし、画質だって選べるようになっている。今その話をすれば、誰でも想像力が追いつくはずだ。
 ネグロポンテがビーイング・デジタルで唱えたのは、さらに強いメッセージだった。アトムとビットの結合だ。現実社会のアトム(物質)や活動は、デジタルのビットに置き換えられるものはみな置き換えられるという考えである。メディア産業の融合はエンタテイメント-ジャーナリズムの分野であり、世間の一部にすぎない。だが、デジタルは人の生活をまるごと飲み込んでいく。
 買物をしたり勉強したり仕事したりすることがみなオンラインでできるようになる。ネットの上にデパートや学校や職場や銀行や病院が建ち並んでいく。可能だというのではない。必然だというのだ。そしてインターネットの普及前に書かれたこの自信に満ちた見解はたちまち事実となった。
 どんな片田舎の小さなビジネスも世界市場を相手にできるようになった。自分で会社を興してチャレンジする気風が高まった。意思決定のスピードが高まり、競争が激しくなり、価格は弾力化した。価格の主導権は、供給者サイドから消費者に移行している。商品の企画・設計に消費者の意見がビルトインされるようになった。利用者たちが結託して商品やサービスを作ることも見られるようになった。そして、あらゆる人が世界中の知識を瞬時に入手できるようになり、意見を表明し、表現する手段を獲得した。
 「変化するという概念が変化した。」ネグロポンテは言う。不変で済むものがなくなったということでもある。変化は続く。技術も世の中も変化していく。しかも、20世紀の技術ひとつ取ってみても、まだ完成をみせていない。インタフェースも、ネットワークも、コンテンツも、まだまだだ。メディアラボも技術の改良と革新を続けなければならない。
 さらに、デジタルは、変化のステージを変えることを要求している。モバイル、ウェアラブル、ユビキタス。アトムからビットへの移行は90年代に実現したのだが、これからはビットからアトムへの移行を実現していくことになる。バーチャルな空間、コンピュータのディスプレイの中で繰り広げられている行為を、現実の空間に引き戻してくるという逆方向の運動だ。ディスプレイを脱して、身の回りのもの全てがコンピュータになり、インターネットでつながれる環境の実現だ。
 そのためには、コンピュータをバラバラにしてつなぐだけではダメだ。コンピュータの性格そのものを変えていかなければいけない。コンピュータに人を理解させて、賢くさせることが最重要課題だ。コンピュータを友達にしていってやらなければならない。そして、ナノ技術やバイオ技術といった、デジタルと並んで次を拓く技術と融合していく必要がある。いよいよデジタルは、モノだけでなく、人の精神や肉体と同化していく必要に迫られている。
 しかも、このような技術は、高尚に留まっていても仕方がない。いかに安く世の中に広められるかが大切だ。世界中の課題に立ち向かうために、あらゆるセクターと協調しながら研究を進めていく必要がある。外に向かって活動を広げていく、これもまたメディアラボの宿題だ。
 メディアラボは改めてたくさんの宿題を抱えることになった。世の中が急速にデジタル化を進める結果、メディアラボのカリスマ性も急進性も、油断すればすぐに色あせる。喜ばしいことだ。自らを変化させることにチャレンジする、それがメディアラボのアイデンティティーなのだから。



1-5 ビンと紙

 オープンハウスが続いている。ロズ・ピカール教授の部屋。女性がクルマのハンドルを操縦している。目の前のパソコン画面に顔が映っている。なにやらデータも表示されている。「ハンドルさばきとか、ブレーキやアクセルのタイミングといった行動をクルマが把握するんです。」自動車は走るパソコンだ。私がきちんとクルマをコントロールできるようにするわけか。「逆です。クルマの性格をドライバーの性格にマッチさせるんです。」
 うーむ。「緊張している、リラックスしている、ということをコンピュータに判断させるんです。」私が楽しんでいるとか、怒っているとか、怖がっている、ということを?「ハンドルを握る強さ、座る姿勢、表情や視線から読み取るんです。」コンピュータと人との接点は、キーボードやマウスだけではない。カメラや圧力センサーなどのインタフェースで、コンピュータは私からのインプットを吸収する。それを知識として集積して、私を理解しようと努める。
 別の部屋。テッド・セルカー教授の研究室。画面に黄色い丸がたくさんある。どれかの丸を見つめると、赤に変わる。「視線を読んでいるんです。」別の丸に視線を移すと、それが赤になる。「そのまま視線を動かすと、赤い丸がそれに沿って動きます。これでゲームを作ると面白いでしょ。」自分がどこを見つめるか、意識的にコントロールするのは難しい。ふと目をそらしたりしてしまう。無意識で操作されるゲームができたら画期的だな。
 その隣で、大男がベッドに寝ころんだ。「天井を見て。」天井が大画面のディスプレイになって、パソコン画面が投影されている。朝日の絵が昇ってきた。「めざましセットしておくと、朝日が起こしてくれるんです。」単純で面白い。寝ころんだまま手にしたボールを動かすと、画面がバスケットのゲームになった。「ゲームのコントロールもできます。」ほう。「いま上を向いているので天井なんですが、横を向いたら横の壁に画面が映るって具合にしたいんです。」住空間をまるごとメディアにしようと言うんだな。
 向かい側に、ガラスばりの台所がある。「デモを見ていって下さい。」女性が誘う。マイク・ホーリー教授の研究室。白いカウンターの上に、料理の映像が浮かんでいる。調理法を解説してくれている。見せる台所だな。「見せるだけじゃありません。吹きこぼれとか焼き過ぎとか、危険が迫れば声で知らせてくれます。冷蔵庫の牛乳が足りなくなっていたら教えてくれます。」しゃべる台所だ。「考える台所なんです。」生きている台所だな。
 通りがかった別の学生が言う。「視聴覚だけじゃない、ニオイもデジタルの領分です。」いいニュースがネットで入ってきたら、ミントの香りが部屋に立ちこめるシステムを作っているという。いやなニュースはレモンだという。
 「ニオイのファイルをメールで送ることもできるようになります。」本気?「本気。」まさか味覚も?「ラボで取り組んでいますよ。」ラーメンの味と香りをメールでお届け?「まずはチョコレートあたりからじゃないでしょうか。」本気か。
 部屋を移る。スーパーの買物カゴを持ってたたずむ女性。PDAとセンサーが取り付けてある。ポテトチップスの袋を取り出した。「バーコードをなぞると、値段がPDAに表示されます。3個で15%引きといった情報もサーバから引き出されます。」どこでもコンピュータ、ユビキタスの実用例をデモしているわけだ。カゴのパソコン化、ポテトチップスのビット化、スーパーのデジタル化。
 部屋を移る。石井裕教授の部屋。石井はNTTヒューマンインタフェース研究所から95年にメディアラボに移籍し、今やラボの大看板である。モダンな丸テーブルの上に、三本の空きビンを置いた。虹色の美しい光が下部から射し込む。一本のフタを空ける。ジャズのピアノが流れ始めた。ビンの中に詰まっていた見えない音がふわりと流れ出したようだ。ランプの中からおごそかに召使いが現れるように。
 もう一本のフタを取る。ベースがピアノにからみ始めた。もう一本はドラムスだ。アンサンブルが始まった。光と手触りと音のアンサンブル。美しい。ビンとフタという身近なアナログ素材、そして音という情報を、手に取ってデジタル操作する。技術とアートの結合。いや、一つの世界観の提示、と言った方がいい。
 部屋を移る。トッド・マッコーバー教授の部屋。テントウムシのようなオモチャを指でトントンと叩くと、そのリズムが繰り返される。ポン、と叩くと、もう一人のテントウムシがそのリズムを奏ではじめた。テントウムシのレバーを動かすと、そのリズムと音色が操作されて、それをまた他のテントウムシに送る。「音でコミュニケーションするんです。」
 そのとなりでは、パソコンの画面でカラフルなお絵描きをしている。スタートボタンをクリックしたら、絵の線に沿って、雄大な音楽が流れ始めた。「お絵描きをするように、作曲するソフトです。」これを世界中のこどもが使えるようになれば、みんな作曲家になれるね。「もうウェブから無料でダウンロードできるようにしています。音楽を演奏したり、作ったりすることを、専門家の手からみんなの手に取り戻すんです。」音楽の概念じたいが変わるかもしれない。
 部屋を移る。ニール・ガーシェンフェルト教授の部屋。「この腕時計をはめて下さい。」彼も同じ時計をしている。時計と言っても、メディアラボという文字が表示されたディスプレイだ。「ハロー。」手を差し出すので、握手をする。すると、私の時計にもメディアラボという文字が表示された。手を触れるとそれがスイッチになって文字が出る?「違います、私のデータがそちらに伝送されたんです。」電波か赤外線?「違います、手のひらをデータが通って行ったんです。」肉体を通信回線にしたのか?「そうです。名刺ていどの情報なら1秒で通ります。」
 そこにシャーペンの芯の容れ物が無造作に置いてある。中に小さな基盤が透けて見える。それは?「インターネットのサーバです。」は?「サーバです。」ということは、そのう。「ポケットに入れて使ってもいいし、そこらじゅうにまき散らして部屋中サーバだらけでもいいです。トースターもエアコンも電球も、みなTCP/IPでコントロールするようにすればいいんです。」これは意味を把握するのに2日ぐらいかかりそうだ。
 部屋を移る。ジョー・ジェイコブソン教授の部屋。コンピュータ・インクのデモだ。特殊なインクを使うことで、コンピュータのディスプレイを印刷してしまおうというのだ。紙のようなディスプレイを作るのではなく、紙にディスプレイを印刷する技術だ。
 「もう実用レベルまで来てますから、看板とかスーパーの値札などから使われていきますよ。」ああ、前回みた時もそう言ってたね。「前回はプラスチックみたいな素材の上だったでしょ、これは紙ですよ。」本当だ。紙に印刷された文字が動いている。すごい。本を開けば映画が上映されるというわけだ。また後で聞かせて。
 そして私はまた部屋を移る。



1-6 400と150

 メディアラボには30名の教授がいる。みな別々の専門領域を持ち、別々のテーマで研究を進めている。研究領域は多岐にわたる。デジタルの物理学、デバイス技術、ネットワーク技術、人工知能、ウェアラブル・コンピュータ、ホログラフィー、映像インタフェース、音声インタフェース、エージェント・ソフト。そして、音楽やグラフィックデザイン、電子出版。学習、教育、オモチャ。最近はナノ技術やバイオ技術、ロボティクスなどの分野からも参加している。デジタルに関わる全ての領域をカバーする。
 ネグロポンテは言う。「メディアラボは、自然科学ではない。技術でもない。人文科学でもない。その三つが混ざり合ったものだ。」
 女性は5人。出身もまちまちだ。ネグロポンテはギリシャ出身、パパートは南アフリカ出身、石井は日本出身。インド系、ベルギー系、中欧系、そして多くのユダヤ系。大御所もいれば、30代になったばかりの教授もいる。そして、全員が、各分野での世界第一人者を自任する。
 修士・博士課程の学生は180名。6割が修士で、4割が博士課程だ。85%がメディア芸術科学学科に属し、残りはエンジニアリングなど他の学科に属する。彼らはいずれかの教授グループに入って研究に当たる。教授30名に学生180名であるから、1グループ6名程度の規模でチーム編成がなされる。
 メディアラボは研究所であると同時に、教育機関でもある。修士や博士がこの中から生まれていく。その点が通常の研究所との違いだ。教室で勉強する科目もあるが、アトリエのような環境で研究したり開発したりするスタイルの授業も多い。学生たちは楽しそうに励んでいるが、課題は実に過酷だ。
 彼らは全員、学費が免除されている。加えて、月額1700ドル程度の給付金が与えられている。そして、研究補助員の肩書きが与えられる。通常、学生は年間2万5000ドルの学費がかかることを考えれば破格である。メディアラボめざして世界中から俊才が集まるのも当然だ。
 学部学生もメディアラボに来る。勉強したり、研究の補助をしたりする形で、年間200人の学生がラボの活動に参画している。これら総計400名が研究を担っている。このほか、50名のスタッフが業務運営を支えている。
 2002年度の年間予算は4500万ドル。2003年度には大幅カットの様子だが、30グループで単純に割ってみると、大学の研究所としては潤沢にも見えるし、企業研究のレベルに照らせば小さくも見える。それらが150の企業・団体スポンサーからの資金によってまかなわれている。産業界との強い結びつきがメディアラボの際だった特徴であり、産学連携の成功モデルとして君臨している。
 スポンサーにはあらゆる産業の顔触れが見える。電子機器、家電、コンピュータソフト、通信、放送、出版、広告といったメディア産業からはスター企業が軒並み名を連ねている。有名なライバル関係にある企業が仲良くリストに並んでいる。金融、流通、化学、食品、自動車、玩具。官庁や政府機関、国際機関の名も見られる。スポンサーの本拠地は、半数がアメリカ。残りの半分がヨーロッパで、半分がアジアだ。日本企業は12社が参加している。
 研究30グループと150社をタテ糸とヨコ糸でつなぐ交差点として、研究テーマを大くくりにしたコンソーシアムが編成されている。オンラインの世界を探求する「デジタルライフ」、情報の生産・編集・利用をテーマとする「組織化:情報」(I:O)、モノとビットの結合をめざす「考えるモノ」、子供や途上国などの情報化を扱う「デジタルネイションズ」、そして生活環境のデジタル化に関する「チェンジング・プレイス」の5つだ。それぞれのコンソーシアムは30から50のスポンサーが会員となっている。
 その下に、9個の小さいスポンサーグループが設定されている。より個別の研究テーマを扱うものだ。遊びや学習を研究する「明日のオモチャ」、クルマの情報化「CC++」、電子商取引やエージェント「eマーケット」、通信と放送とコンピュータの融合「ブローダーキャスティング」など。
 メディアラボのスポンサーになるというのは、通常、このいずれかのコンソーシアムに参加することを意味する。年会費20万ドル。最低三年契約。個別の小スポンサーグループに参加する場合は、さらに年間7万5千ドルから10万ドルの会費が必要だ。
 これを高いと見るか安いと見るか。それは、スポンサーになることで得られる特典をどこまで使いこなそうとするかにかかっている。
 まず第一に、スポンサーにはメディアラボの知的財産の利用権が付与される。特許やプログラムなど、スポンサー期間中に開発された成果は無償でずっと使えるという権利だ。しかもその権利は、参加したコンソーシアムに関わるものに限られない。メディアラボ全体で生み出された知的財産がみな権利の対象となる。いわばメディアラボとスポンサー全体でオープンに成果を共有する形だ。スポンサーからみれば、年間予算4500万ドルの活動が生む経済価値を20万ドルで買う権利を得るという計算だ。
 これが最も直接的で公式の特典ということになるが、より重要な魅力がある。それは、メディアラボの教授陣や学生を使いこなせるという点だ。メディアラボの資産は人である。自社の技術的な課題を彼らと共有し、直接にアイディアを検討する。相談相手として活用するという価値だ。
 そして、メディアラボの効用として私が最も高い価値を見出すのは、スポンサー企業群のコミュニティである。デジタルを切り開こうとする意志を持った各国のスポンサーどうしが交われば、そこで新ビジネスや提携が生まれていくのは自然なことだ。この一種のサロンは数字に換算できない価値がある。メディアラボはその場を提供し、媒介役を務める。そう、メディアラボは産業のプラットフォームであり、メディアである。



1−7 夜とスキー

 ズババババ。ブイン。ギュイーン。ドゥン。大リーグ最古の球場、ボストン・レッドソックスの本拠地、フェンウェイパークの隣にあるゲームセンターにいる。I:Oという名のスポンサー会議がはねて、全員で食事に行こうというので、チャーターされたバスに乗り込んだら、ここに来た。カクテルと食事とゲーム。I:Oを主催するブライアン・スミス教授の仕業だ。彼のやりそうなことだ。
 シュビーン。ウォーッ。セガのスキーゲームに熱くなっている。負けた、もう一回だ!スポンサーに挑んでいるのは、ウォルター・ベンダー所長。メディアラボの所長がゲーセンで遊んでるぞ!彼はメディアラボの創設時からずっと研究を続け、今は研究者と現場監督の二役をこなしている。いや、今はスキーゲームをしている。ゲレンデ映像に入り込んで、スキー板とストックを足腰、腕で操作するバーチャル・リアリティーだ。
 インタラクティブ映像のバーチャル・リアリティーを最初に開発したのはメディアラボの前身、アーキテクチャ・マシン・グループだ。ベンダーはネグロポンテらとともに、そのグループに属していた。世にも有名なそのシステムは79年、アスペン・ムービーマップという名前で披露された。コロラド州アスペンの町をバーチャルに再現して、ドライブしたり、店に入ったりという疑似体験ができるものだ。
 コンピュータの将来性、インタフェースの技術、映像表現の可能性、いずれの点でもそのコンセプトは当時の世界に衝撃を与えた。そのマルチメディアは、いまではこうして大人もこどもも遊びこなす技術と表現に進化した。
 ブロロロ。ギャーン。キー。オンラインで対戦するカーレースから離れないスポンサーの集団がいる。ベンダーもそっちに参加した。デザイン界の若き巨匠、ジョン前田教授は、高精細が売り物のF1レースのブースに一人で入っている。こどもと学習の専門家、ミッチェル・レズニック教授は、木の球を穴に投げ込むアナログなゲーム。「明日は野茂がフェンウェイで投げるよ。」と登板予告をしている。
 よく遊ぶ。全くよく遊ぶ人たちだ。以前、東京のお台場にあるセガの遊技場、東京ジョイポリスにレズニックを連れていったことがある。デジタル音楽のトッド・マッコーバー教授、センサーやシンセサイザーの専門家、ジョー・パラディソ教授も一緒だった。東京ジョイポリスがメディアラボのコーナーを造りたいというので、スーパースリーで視察に行ったのだ。
 ラリホー、ラリホー。その時も彼らはよく遊んだ。片っ端から遊んだ。音ゲー、ダンスゲー、スリラー、スケボー、臆せず手当たり次第に試す。そして何やら考え込んだりしている。技術のことだろうか。映像のことだろうか。音のことだろうか。それとも、勝ち負けのことだろうか。ラリ、ラリ、ホー。その好奇心と探求心が彼らのエンジンだ。
 あの時も夜中だった。お台場から、湾を隔てて、東京タワーがぼんやりオレンジに輝いていた。今夜は、テーブルの上にロウソクが妖しく揺らめいている。ゲームコーナーから1Fおりたフロアを借り切り、カクテルと食事だ。夢は夜ひらく。洋の東西を問わず、大事なことは夜決まる。戦争だってサロンで始まる。
 今日はネグポンいないね。「韓国行ってるらしいよ。」ブロードバンド大国だもんなあ韓国。「インドもよく行ってるみたい。」ソフト大国だもんなあ。「ジャパン・パッシングって言うんじゃないの。」でもさっき、秋にはメディアラボみんなで日本興行やるかって話が出てたよ。「ジョン前田は日本で個展やるんだって。」行く行くー。
 メディアラボ・ヨーロッパ、調子どうです?「順調、順調。そっちこそ、京都にこどものセンター造るって言ってた件、どうなった?」おかげさまで、オープンしました。CAMPという名前です。メディアラボが全面協力してくれたんで、短期間で開所できましたよ。「一緒に何かできるといいね。」アイルランドと京都のこどもたちを映像でつないでワークショップしてみたいんです。「その話、今度ダブリンで具体化させよう。」
 バーニー、カンボジアのプロジェクトどうなってます?「パソコン配ったり小学校たてたりする資金がもっと要るねえ。」もういちど日本政府にも話しに行きましょうよ。「政府の連中と何かプロジェクトやってるんだって?」電波を私有化させたらどうなるかとか、通信・放送融合の法制度とか、そんなこと検討するチームやってるんです。
 「あ、こちら日本の方ですか。次世代の携帯電話でデータ収集するシステムのビジネスを考えてるんですが、どう思います?」日本でやるんですか?「ボストンと台湾にオフィスを置きます。」相談に乗りますよ。無論タダで。詳しくはメールでやりましょう。
 今日は出版とか新聞の人が多いね。「このコンソーシアムはもともと電子出版からスタートしたからね。」電子出版は未来の課題から現実のビジネスになったね。「こどもが自宅で出版する世界になっちゃったんだよ。」
 はじめまして。退職者協会さんですか。ほう。「シルバー世代のネットワークを広げてるんです。オンラインのコミュニティにシルバー世代のパワーを活用しようと思って。」なるほど。私は子供の能力を広げていくNPOを日本でやってます。「98年にやったジュニアサミットをまたやるといいんじゃないですか。」実は企画しようと思っているところなんです。「横からすみません、こども向けテレビのプロデューサーをしていた者なんですが、その話もっと教えてもらえませんか。」あ、一緒に考えましょうか。あそこにいる人も興味持ってるから、一緒にあっちのテーブルで・・・
 賑やかに、夜がふけていく。



1−8 2Dと2C

 レズニックの予告どおりだ。翌日は野茂投手が登板した。日本からみれば野茂英雄は大リーグ進出の開拓者だが、アメリカからみれば自国の英雄だ。レッドソックスのエース、ペドロ・マルチネスはドミニカから来た。国籍はどうあれ、どちらもアメリカ人だ。アメリカに来て活躍すれば、アメリカ人なのだ。ボストン交響楽団でタクトを振る小澤征爾は、ボストンの顔だった。外からやってきた人がそこの文化を作る。オープンで許容力のあるコミュニティが国際的な文化を育む。
 オープンなプラットフォームだけが多様性を保証する。だが、多様な状態というのは、意図して場を造らないと、維持することが難しい。メディアラボはもともと異種の交配であり、多様であることをモットーに造られた。が、それを保つには、強く努力し続けることが必要だった。多様性(ダイバーシティ)のDは、メディアラボ精神の根幹である。
 バラバラなだけでは意味がない。それぞれの軸が傑出していなければならない。ネグロポンテが日本を評して語ったことがある。「日本は、出るクイを、もっと出させるべきだ。」
 タンジブル・メディアグループを率いる日本人唯一の正教授、石井裕は言う。「出過ぎたクイは打たれない。思いきり出過ぎたクイになることだ。」野茂も小澤も石井裕も、出過ぎたクイである。
 ベンダー所長が言う。「メディアラボの性格を代表する言葉は、イマジンとリアライズだ。」頭で思い描いて、それを実現すること、という意味だ。想像して、創造せよ。元はジョン前田の言葉らしい。
 これと同期する言葉で、メディアラボの古くからのモットーに、「デモか死か」というのがある。実物で示したまえ、という意味だ。ここでは学問としての研究や批評より、発明が評価される。論文より、モノやプログラムや作品がモノを言う。未来の予測なんてのは評価の対象外だ。形で見せて初めて仕事をしたことになる。
 教授も学生も、いつも何やらシコシコと作っていて、スポンサーにプレゼンする。スポンサーの思いとズレることも多い。だが、そこが出発点だ。デモをきっかけに、使われている技術、アイディアや着想にさかのぼって、次の研究課題や実用化への道のりや別の利用法に話が広がっていく。デモのD。これもメディアラボ精神である。
 個人の能力として重要なのは、創造力だ。試験ができたり、世渡りがうまかったりする能力は、メディアラボでは無意味だ。クリエイトし続ける力。着想して、構想して、技術を開発して、それを手なずけて、表現する。その力。クリエイトのC。これも大切なスピリットである。
 メディアラボの学生は面白いものをクリエイトしてくれる。ある春の日。キャンベルのスープ缶をあしらった色刷りポスターがラボのあちこちに貼り出された。スープ・イン・ザ・ヒューチャー、未来のスープ、とある。
 I:Oの前身で、電子新聞をテーマとするコンソーシアムに、ニュース・イン・ザ・ヒューチャー、未来のニュース、というのがあった。未来のスープは、これになぞらえたネーミングに違いない。ポスターに、飲むコンピュータのことが書いてある。その初会合が開かれるというのだ。
 うむ、量子レベルの作用でコンピュータの機能ができれば、液状のコンピュータが可能となる。以前ネグロポンテがスポンサーに「服用するコンピュータができるようになる。」とささやいているのを聞いたこともある。
 コンソーシアムができるということは、それが実用レベルに達したということか?コンピュータ・スープのデモが見られるのか?そんなことは、未来のニュースだと思っていたのに、現実とあらば一大ニュースだ。マスコミも注目するぞ。会場となる地下の会議室に、指定の時刻、メモ帳を片手に気負ってでかけた。
 人影がまばらだ。ガランとしている。変だな。廊下の片づけをしているおばさんに、未来のスープの会場は変更になったのか聞いてみる。「あんたもスープなんとかに来たのかい。そんなものはないよ。エイプリル・フールだよ。じゃまだからアッチ行っとくれよ。」
 エイプリル・フール。未来のスープ。クリエイティブなウソ。飲むコンピュータ。アカデミックなジョーク。とてもメディアラボだ。だまされたんだが、うれしくなって、スキップして帰った。
 こういうことをしでかしてくれる人がメディアラボの資産だ。ラボの資産は人である。教授、学生、スタッフが資産である。その入れ替わりも激しい。学校だから、年に四分の一は人が入れ替わる。教授の競争も厳しく、人材の登用も活発だ。新しい人材が新しいテーマにチャレンジする。「伝承」より「開拓」。
 その後、2001年にラボに参加したアイザック・チャン教授は世界初の液体量子コンピュータを開発した。未来のスープはジョークではなくなった。What's new? Who's new? その新陳代謝のメカニズムがメディアラボの動力だ。
 そして、メディアラボの研究内容は、それぞれ独立した教授が決める。新しい人を見つけて、やってきたその新教授が、自分のテーマを掲げて、それがメディアラボとなる。はじめに人ありき。研究はそれに伴って決まる。逆ではない。これまでずっとそうしてきて、これからもそうする。
 そう、メディアラボには教典がない。こういう研究をこういう方向でこういうスケジュールで進めましょう、という全体計画もない。組織図すらみかけない。作ったところで、すぐ変わる。あるのは「変化する」という認識だけだ。絶えず変化していることがドグマといえばドグマだ。チェンジのC。もう一つのメディアラボ精神だ。
 研究テーマを大くくりに分類したものもあるにはあるが、それもしょっちゅう変わっている。先日も私がラボの研究を日本で説明するため、ある文書を参考にして、技術とアートとアプリケーションの三分類で整理しようとしていた。するとベンダーが「これはもう古い。今日からは七分類で行こうと思う。」と言う。ああ、一から作り直しだ。
 いつも新領域にチャレンジしている。流れている。よどまない。それは常に自らを破壊し続けること。成功体験を拒否していくことだ。ネグロポンテがそうした精神をまとめて話したことがある。「権威を疑うことだ。違いを尊ぶことだ。エスタブリッシュメントになることを拒否することだ。自分を発明し続けることだ。」
 とても困難なことだ。




1-9 ピザとアーモンド

 朝。スポンサー会議はもう終わり。日常のメディアラボだ。3階のだだっ広い部屋に、何十台ものパソコンやワークステーションがランダムな方向を向いて置いてある。こどもの話相手をするじゅうたんやセネガルの情報化プロジェクトなど、研究の内容を解説するパネルが天井から下がっている。
 むきだしの回路の基板やスピーカー。オシロスコープ。ねんどで作ったアニメの人形。パンにフォークが刺してあって、そのパンの中にコンピュータのチップが埋め込んである。カエルの置物に銅線が巻きつけてある。ほかにもどう描写してよいかわからない怪しいものが雑然と転がっている。
 夜型の人が多い。ふだん朝は人影はまばらだ。コンピュータの前に座っているのは女性が二人。一人は立体アニメの人物を補正している。イヤフォンをした頭がぐわんぐわん動いている。激しい曲が鳴っていると見える。もう一人は、顔をディスプレイにくっつくほど近づけてJAVAのプログラミングをしている。
 ソファでは男子学生が三人くつろいでいる。徹夜あけのようだ。プログラムを書いたり映像を編集したり、デジタルの作業は面白くて、つい夜を徹してしまう。「デジタルは体に悪いぜ。」冷めたピザをムシャムシャほおばる。君たちはいつもピザだな。何か食べたいものおごってあげようか?「あったかいピザが食いたい。」なんだ。ピザが好きなだけか。
 それにしてもよく働く。学生も教授も実によく働く。好きでやっているから、明るい。レビィ・ストロースがどうとかマクルーハンがどうとか話している。果たしてそんな話題が徹夜あけにふさわしんだろうか。元気な頭脳だ。
 その隣の部屋で授業が始まった。大きなテーブルの周りを20個ばかりの事務イスで取り囲んで、ビデオを見ながら議論をしている。ノートパソコンを持つ者。コーラの缶を持つ者。コーヒーカップを持つ者。床に座り込んでいる者も数名。赤ちゃんを抱いた女子学生もいる。
 日本のテレビ局が取材に来た。事務局から取材の許可が下りた。軽く昼食を済ませてから、地下へ案内する。2フロアーが吹き抜けになったホールのような部屋だ。真面目な顔をした男が粘土をこねている。「これ、楽器なんです。」二つの電極の上に粘土を置くと、パソコンから音が鳴りだした。「形を変えると、ほら、抵抗値によって音が変わる。子供でも楽しくプレイできるでしょ。」
 これでツィゴイネルワイゼンあたりバリバリ演奏する達人になりたいなあ。「そういう設計もできますよ、自分でプログラミングしてみたらどうです。」粘土で白鳥をうまく作ったら白鳥の湖が流れるとかさあ。「だから、そういうプログラムを自分で作る、楽器を自分で作るためのキットなんですよ。」
 隣には、レゴのブロックで作ったロボットが転がっている。レゴのヒット商品、マインドストームスの作品だ。コンピュータをこどもが自分でプログラミングして、自分だけのロボットを作るという商品である。マインドストームスはこのレズニック教授グループの研究が基になって商品化された。
 「心臓部のコンピュータの最新バージョンです。」乾電池ていどの大きさだ。「クリケットといいます。ロボットや楽器だけじゃなくて、いろんな道具が発明できますよ。かなり強力なツールです。もっと小さく改良していきますけど。」世界中のこどもたちに持たせたら、新しい世界を作っていってくれそうだね。
 現にそこに男の子が数名いて、コンピュータを操作している。「こどもたちと一緒に開発を進めているんです。」おや、茶色くて体格の立派なイヌがゆっくり近づいてきた。やあ、ルフス。ルフスはいつもここにいる。私が飼っているんだとケン・ハース客員教授は言うが、ラボの立派な顔である。ほかにもラボの中にイヌは三匹ぐらいいる。
 3階に昇って、マイク・ボウブ教授にデジタルテレビのアプリケーションをデモしてもらう。「これBSで使ってみたいなあ」とテレビ局。スポンサーになればどう?と私。その隣を、アロハのようなシャツにニットのネクタイをしたおじさんがニコニコして通り過ぎた。「今のひと、マービン・ミンスキ−じゃないですか?」そうですよ。「うわー、ミンスキーだ。生ミンスキーを見たぞ!」スポンサーになれば?
 それからウェアラブルを研究している部屋を訪れる。ペントランド教授にインタビュー。二人の研究員にウェアラブル機器をつけて屋外でデモしてくれるよう頼む。釣り師のようなチョッキにCPUもメモリーもバッテリーも通信機も一式おさまっている。メガネにつけたネクタイピンのようなものがディスプレイだ。
 黒いサングラスをしたスティーブ・シュワルツ研究員が「オモテに出るならカッコよくしないとな」と言ってチョッキの上から背広をはおった。「アルマーニだぜアルマーニ。」似合わない。ビルを出て芝生を歩く。「触ってくれ、触ってくれ。肩のサーバが熱くなってきた。」肩に張り付いたチップが熱を帯びている。
 「ここにはオレの全てが詰まっている。そして、誰かがオレのサーバにアクセスしてるんだ。ホームページをのぞいてるんだ。オレは地球のどこかからアクセスされているのを実感するぜ。ああいい感じ。」メディアラボ的には正常なのかもしれないが、日本の放送コードに引っかからないかが心配だ。
 IBM出身のテッド・セルカー教授が自転車に乗ってやってきた。こぐとシャボン玉が出てくるヘンテコな自転車だ。「クルマにぶつかっても泡ふいてたら笑って許してもらえると持って工夫したんだ。」えっ、自分で作ったの?
 日が暮れてきた。ビルの中に人が増えてきた。地下のグランドピアノから荘厳な演奏が聞こえてくる。プロが来ているな。のぞいてみると、ネットワークやオモチャを専門とするマイク・ホーリー教授だった。リサイタルが近いんだな。真剣に弾いているからじゃましないでおこう。
 自分の部屋に戻る。ドアを開けっぱなしにしておいたら、オウムが中で歩いていた。隣の部屋にいるアイリーン・ペパバーグ客員教授の同僚のオウム君で、色や形を判断したり計算したりする能力を持つ。とても賢い。教授のイスを狙っていると思われる。
 彼がエサのアーモンドをポリポリしながら歩くので、床がアーモンドだらけになっている。それ、うまいのか?日本語で聞いてみたが、きょとんとしている。一個おくれよ。彼の食事が入っている容器から一粒つまんでみる。味がついていない。明日ピザ買ってきてやるよ。



1−10 西と東

 今日はオオカワ・ランチの日だ。週に一度、外部からゲストを招き、お話を聞きながら昼食をとる。「未来のスープ」が開かれるはずだった地下の会議室に向かう。ベンダー、レズニック、スミス、常連の教授たちが学生たちと一緒に列を作っている。
 その後ろに並んで、パスタとサラダを紙の皿に盛る。ドクターペッパーを取って空いてる席に着く。30人はいるかな。テルアビブ大学の教授が小学校での教育実験についてプレゼンを始めた。「スタンダードというのは産業革命時代の言葉だ。」ピクッと来る言葉のたびに、フォークをペンに持ち替えてメモをとる。
 放課後教室、遊び、実験アート、デジタルデバイド、こども新聞、コミュニティ活動。オオカワ・ランチにはさまざまな実践者が姿を現し、メディアラボと外部との接点をなしている。
 デジタルと社会との関わりを探求すること。技術的な課題をコミュニティからフィードバックさせること。このような、いわばアプリケーションの分野は、技術とアートに並ぶメディアラボの支柱だ。特に、こどもや途上国など、デジタルの恩恵を受ける効果の高い人たちや地域に光を当てている。新しい技術を提供して、こどもや途上国が創造力を発揮していく環境を整える。実践を通じて、次の技術を考え直す。
 オオカワというのは、CSK-セガグループの総帥だった故・大川功さんを讃えてのネーミングだ。2001年3月に亡くなられるまで、大川氏はメディアラボの大パトロンとして支援を続けてきた。98年には、未来のこどもとメディアに関する研究機関「MIT Okawaセンター」を設立するため、私財2700万ドルをMITに寄付している。
 その寄付をもとに、メディアラボは現在のビルの隣に、地上7階建ての新しいビルを建設する。その後のメディアラボの財政難で計画が延びているが、ひとまず2005年にオープンの予定だ。MIT Okawaセンターはその中に収まる。学習、遊び、アート、表現、健康、・・・そのほか、現在メディアラボで行われている活動を質量ともに発展させる。こどもとデジタルに関する全領域をカバーしていき、その分野では世界最大の研究機関になる。途上国の情報化や高齢者のネット活動などもカバーすることとしている。その活動は、レズニック教授を中心に実質的にスタートしていて、その一つがオオカワ・ランチというわけだ。
 95年、日本の政府や経済界が音頭をとって、ジュニアサミットが開催された。大川氏が発案者である。各国のこどもが東京に集まり、デジタル社会の未来を論じた社会イベントだ。当時、私は政府側でその実現のためにほんの少し働いた。
 その第二回をMITメディアラボがホストとなって98年11月に開催した。139か国3000名の参加者の中から選ばれた100名の代表がMITに集結した。私もその時からメディアラボに参加した。デジタル世代の代表たちは、「オンライン国家を作るので一票よこせ」というようなことを、ニューヨークの国連本部に映像中継して主張した。その後も彼らはオンラインで活発に活躍している。Okawaセンターは、そのジュニアサミットの席上、設立が発表されたものだ。
 新しいビルはこのような活動の本拠地にもなっていく。今のビルと合わせて倍以上のスペースに拡大される。これに向け、他の活動もセンターとして独立させる公算だ。一つは、ビットとアトムの結合に関するセンター。ユビキタスやウェアラブルなど現在のITの次を拓くテクノロジーを開発する。物理学者のニール・ガーシェンフェルト教授が中心となっている。もう一つは、アートや表現に関するセンターだ。音楽やデザイン、ゲームなど、新しい表現を開拓していく。音楽やデジタル楽器を専門とするトッド・マッコーバー教授が中心だ。
 三つのセンター構想。メディアラボは「倍増三分割」に向かっている。しかし、容易に気づくことだが、この三つの内容はかなり重複する。有機的に連携してこそ面白みが出てくる。一人の教授が3センターに関わるケースも日常的に見られることになろう。全体をどう編成して、どう運用するかは、挑戦的な課題である。
 メディアラボは外部にも拡張する。たとえば、2000年の秋に始まったコンソーシアム「デジタルネイションズ。」デジタルデバイドに関する研究を柱とするもので、コスタリカやメキシコ、タイやセネガルといった地域でのプロジェクトが進行している。
 これは企業を対象とする従来のコンソーシアムと性格が異なり、各国の政府や国際機関を主要メンバーにするものだ。スポンサーの顔触れが根本的に異なるので、研究のアプローチ方法もかなり異なったものとなる。ハーバード大学との共同開催という点も新機軸だ。
 また、提携や合弁もある。「メディアラボ・ヨーロッパ」が代表例だ。アイルランドの首都ダブリンのギネス工場の跡地に、2000年7月に開設されたメディアラボ・ヨーロッパは、MITメディアラボの妹である。アイルランド政府の誘致で実現し、10年で2億ドルをかけて成長させる野心的なプロジェクトだ。
 同じくインド政府も「メディアラボ・アジア」を誘致している。こちらも10年で2億ドルもの資金を投じ、インド全体にセンターを分散させていこうとする計画だ。教育や健康、コミュニティでの起業支援など、デジタル技術による社会開発が期待されている。
 日本との関係では、セガが東京ジョイポリスにメディアラボの8プロジェクトを持ち込んで紹介している。FutuExpressというコーナーを設け、感情を表現する手袋、音楽を演奏するジャケットやクツ、グラフィックス・アートなどが展示されている。
 そして、メディアラボの全面的な協力によって生まれたのが、こどものワークショップセンター「CAMP」だ。Children's Art Museum & Park、こども博物館公園という意味で、京都府の南、けいはんな地域に2001年11月に正式オープンした。これも大川氏が「日本にも大川センターを」という願いから発案したもので、CSKが運営している。
 350本のサクラを擁する広大な敷地に、全面ガラス張りの現代アート館らしき建物が置かれている。ロボットづくり、発明教室、音楽づくりなど、メディアラボの技術やノウハウを教授・研究員が自ら持ち込んで、日本の小学生たちとのワークショップを開く。同時に、オンラインで各地のプロジェクトと連動していく。
 レゴやインテルといった企業やナショナルジオグラフィックという世界最大の自然科学団体もCAMPの活動に協力している。アメリカはもちろん、メキシコ、アイルランド、イギリス、シンガポールなどにあるこども博物館とも共同でワークショップを展開していく。これらはいずれもメディアラボのシンジケートである。
 日本では2002年、こうした活動を全国に広げていくため、政府主導によるNPO「CANVAS」も結成された。自治体、学校、企業を巻き込んだ幅広い運動となっている。
 メディアラボは増殖する。