序  ユビキタスを超えて  2003.6.1

 バーチャル・リアリティー。パーソナル電子新聞。3Dホログラフィ。モーションキャプチャー。ウェブ・メール。ウェアラブル・コンピュータ。
 いずれもMITメディアラボが生み出していった技術だ。
 アメリカ東海岸、ボストンに隣接するケンブリッジ市に位置するMIT(マサチューセッツ工科大学)は米国を代表する理系の殿堂だ。ご近所で文系のハーバード大学と並び、世界の頭脳を吸収し、知識を創造する。
 そのMITの中でもメディアラボは異彩を放つ集団である。
 85年の設立以来、ニコラス・ネグロポンテ所長、人工知能のマービン・ミンスキー、数学と教育のシーモア・パパートらのカリスマたちが、デジタルの技術を開拓してきた。各国から集ったデジタル自慢たちが梁山泊のような空間を作り上げ、縦割りの学問領域を乗り越え、企業との連携を推し進め、奇抜なデモや奇怪な作品を打ち出してきた。
 そこは大学というよりも、おもちゃ工場であり、音楽やデザインのシアターであり、パーティー会場であり、そして先端の理論どうしが火花を散らす戦場である。

 メディアラボはデジタル時代のビジョンを生み出してきた。
 設立当初、ネグロポンテは、出版、映画・テレビ、コンピュータの産業がデジタルで融合していくことを盛んに説いていた。それは90年代、現実となった。テレビとパソコンと電話機はドッキングして、一台のデジタル機器となった。コンテンツはワンソース・マルチユースがビジネスの常道となった。マルチメディアは、メディア産業の垣根を取り払った。
 メディアラボはデジタルテレビの急先鋒でもあった。今でこそ日本政府はデジタル放送の旗振り役だが、十年前はアナログ擁護のハイビジョン教であった。デジタル化のメリットを説くメディアラボは、アメリカの政策に深く関与し、それが巡って日本の政策転換にも影響を及ぼすこととなる。
 「ネグロポンテ・スイッチ」と呼ばれるメッセージも著名だ。有線の電話、無線のテレビの関係が逆転し、電話は無線に、テレビは有線にシフトするというものだ。これも今や現実だ。ケータイが固定電話のトラフィックを抜き、CATVも急速に普及している。

 「アトムとビットの結合」もメディアラボのビジョンだ。原子(アトム)によって構成される現実空間の営みは、ビットによって構成されるバーチャル空間に移行するというものだ。これもまたインターネットで実現した。いまやビジネスも医療も教育も行政もオンラインだ。
 ディスプレイの中を現実社会に近づけようとするバーチャル・リアリティーの技術がメディアラボから繰り出されていった。CGやデザイン、音楽やゲームなどのコンテンツ技法だけでなく、エージェント・ソフトや人工知能なども投入して、異次元空間を作り上げてきた。
 そして現在、ビットからアトムへの移行という逆方向の運動が進んでいる。バーチャル空間をいかに現実空間に引き戻すか。モバイル機器だけでなく、家電やクルマや家具や服やクツやその他あらゆるものがコンピュータとなり、インターネット端末となり、どこでもビットに接するようになる。
 無線タグや極小チップのようなデバイス、人の表情や感情を理解するコンピュータ、ウェアラブル・コンピュータや考えるクルマ、考える台所の開発。日本でもおなじみとなった「ユビキタス」と呼ばれる情報社会像だ。メディアラボはそれを支える技術を産み、インターネットの次に来る世界を描く。
 80年代から90年代を通じたマルチメディアやインターネット、そしてユビキタスへと続く流れは、メディアラボの過去を観察すればリニアに読み取ることができる。21世紀のデジタル産業やデジタル文化のヒントも得られるかも知れない。

 メディアラボはビジネスモデル面でも特異である。
 100を超える企業・団体がスポンサーとしてメディアラボを支える。日本企業も12社が参加している。全ての研究費はスポンサーの会費でまかなわれている。基礎研究が主体でありながら、ビジネス分野にも近く、レゴのマインドストームス、NECのベビーシート、スウォッチのID付き時計などの商品化にも寄与している。
 スポンサーはラボの成果物を無償で利用する権利を持ち、30名の教授や180名の学生を使いこなし、そしてデジタル分野を代表する有数のスポンサーたちで成り立つコミュニティをビジネス展開に活かす。他に例を見ない産学連携の成功モデルを築いている。
 近年、日本でも産学連携や知的財産に関する議論が高まっている。アメリカの80年代-90年代のハイテク戦略に水をあけられたという反省もある。国立大学の独立行政法人化という背景もある。
 大学は、知的財産をどう管理して、どう活用するのか。産学官の共同研究に成功パターンはあるのか。研究者、製造者、ユーザによるコミュニティはどうすれば形づくれるのか。メディアラボの事例は、それに対する一つの答えである。

 同時に、メディアラボは教育機関でもある。修士・博士課程の強者どもが集う大学院として、プロフェッショナル教育を授けている。日本の大学は、戦前の高等学校と大学を中途半端にドッキングしたため、一般教養とプロフェッショナル教育を4年でこなす建前だ。実質的なプロ教育は就職後のオン・ザ・ジョブ・トレーニングに委ねられ、大学院は研究者の養成所という色彩が強い。
 一方アメリカは、4年制の大学は教養で、プロ教育は大学院でという設計になっている。法学にしろ経営にしろ工学にしろ、大学院を出ていないと専門として認められないし、逆に、大学院を修めた以上は即戦力として扱われる。
 スポンサー企業と共同で研究し、企業が成果を厳しく問うメディアラボは、学生にとって、実社会のニーズや要求水準をビンビンと肌で感じるこの上ない環境である。
 戦後日本の経営モデルの柱であった終身雇用制が崩れ、労働市場の流動性が高まっている。半人前の新人に投資してじっくり育てる手法は、過去のものとなりつつある。その機能を大学が果たせるのか。世界をリードする教育機関を日本は産むことができるのか。

 そして今、メディアラボは変わろうとしている。
 いや、メディアラボは常に変化を続けてきた。自らを発明し続けることがアイデンティティーであった。インターネットやデジタル放送の展望を示した後は、ユビキタスの世界観を提示してきた。だが、それさえ技術や社会が追いつこうとしている。だから今は、ユビキタスの次に来る世界を見つめようとしているのだ。
 例えば、ナノテクノロジーやバイオに力を入れ、コンピュータ・インクを実用化したり、世界初の液体量子コンピュータを開発したりしている。デジタルデバイドにも重点を置き、地球上の人々の創造力をつなぐプロジェクトを実践して、新しい人類社会を構築しようともしている。
 だが、その新しい世界の実像は、まだ模索中である。混とんとしている。研究の方向が見えないというのではない。放射状だということだ。
 ラボの形も変わる。現在の4階建てのビルの隣に、7階建ての建物を建築している。数年後には、その双方を拠点として、メディアラボは3つのセンターに脱皮する予定だ。メディアとこどもに関する「MIT Okawaセンター」、ビットとアトムの結合に関するセンター、そして、アート表現に関するセンターだ。
 外部にも進出する。2001年にはアイルランドのダブリンに「メディアラボ・ヨーロッパ」を開設した。ラテンアメリカその他の地域とも共同プロジェクトを走らせ、ビジョンの共有を図っている。

 だからといって、苦悩がないわけではない。急速にデジタル化が進んだために、社会経済のスピードが高まり、ラボの先進性もすぐ陳腐化するようになった。次々にアイディアを生み出しても、インパクトの寿命が極めて短い。景気変動の波も被る。スポンサーの維持・確保もかつてのように思いどおりとは行かない。
 これまでずっと順調だった予算も、2003年には激減した。スポンサー数も減少した。インドに開設しようとした「メディアラボ・アジア」構想も挫折した。
 ドットコム・バブル崩壊の波をかぶっただけではない。ラボの生みだす技術やメッセージに対し、スポンサーの目が厳しくなっているということもある。スポンサーに対するラボのコミュニケーションが不十分で、不信感を持たれている面もある。
 スタンフォード大学がメディアラボを照準に据えて新たに始めたコンソーシアム「Media X」や、日本のATR(国際電気通信基礎技術研究所)、東京大学先端技術研究所など、有力なライバルの台頭もプレッシャー要因だ。
 メディアラボは何を見つめているのか。
 次の十年、百年をどう展望するのか。
 アナログの千年からデジタルの千年への転換期をどう乗り切るのか。
 あるいは国際競争に敗れ、ビジョンや技術を出せずに沈没していくのだろうか。


 私は14年務めた郵政省を退職し、98年の秋からメディアラボに客員教授として(2001年までVisiting Professor, 2002年からVisiting Scientist)参加している。MIT Okawaセンター設立プロジェクトが始まるのに際し、設立資金を寄付した故・大川功氏からお誘いを受けたのがきっかけだ。
 以来、京都府の南にこどもセンター「CAMP」を開設したり、音楽プロジェクト「トイ・シンフォニー」にスポンサーの立場で関与したりするなど、いくつかのプロジェクトにも携わり、アメリカ、日本、ヨーロッパなど、あちこちをうろつきながら、産・学・官の間を行き来することとなった。
 その延長で、2002年には、日本政府の支援を受け、こどもの創造力と表現力を育むためのNPO「CANVAS」を設立し、産・学・官連携のプロジェクトを推進している。また、その一環として、マンガ・アニメ・ゲームやケータイなどのポップカルチャーに関する産・学・官連携の研究プロジェクト「PPP」(Popculture Policy Project)を発足させたりしている。
 メディアラボでは、政府出身のような権威は何の役にも立たない。私の専門分野である政策ノウハウなどとは無縁の世界だ。想像力、創造力、技術力、表現力を体現する者のみが生きる。たまたま私が学生時代に手がけていたロックバンドがアメリカでは有名だったため、その点だけ学生たちは一目置いてくれて、助かった。放蕩は身を助ける。

 こうして4年あまり、私はメディアラボを観察した。いや、正確に言えば、メディアラボというプラズマを通して、日本を見つめた。日本の技術、産業、政治、社会、表現力、創造力。アメリカやメディアラボを鏡にしながら、日本のことを考えた。
 本書は、メディアラボの技術やビジネスモデルを描写している。だが、そのねらいは、日本の現在と未来をそこに投影することにある。
 メディアラボのデジタル世界観は共有できるのか?日本のスポンサー企業がメディアラボをうまく使いこなせていないのはなぜか?メディアラボのような産学連携モデルは日本でも適用可能か?
 直接の答は書いていない。だが、そのような視点で本書に目を通して頂ければありがたい。日本社会が閉塞感から脱出できないでいる中、少しでも考えるヒントが提供できればと願う。
 基本的に本書は、メディアラボを持ち上げている。だが、もちろんメディアラボにも厳しく批判すべき点はある。このままでは過去の名声も地に墜ちると感じることもある。採点が甘いと感じられる読者は、情の移った客員が記したオマージュと苦笑していただきたい。

 本書は、2001年からの2年間で書き上げた。ドッグイヤーのIT分野では、もはや古びて見える記述もあろう。
私は、ネットバブルの絶頂期にメディアラボに参加し、ブロードバンド、モバイル、ユビキタスの喧騒に身を置いた。そして、バブルの崩壊とその苦悩を見た。いまアメリカのITは身悶えし、このままではネット後進国になるという恐怖さえ囁かれる。いい時期に滞在したと思う。
 アメリカの自信。アメリカの底力。アメリカの傲慢さ。アメリカの苦悩。ひととおりを肌で感じた。
 いま私は、映像見本市に参加するため、カンヌにいる。南仏の真っ青な空と、地中海の真っ青な海が広がる。そのずっと向こう、バグダッドが赤く炎上している。アメリカ軍の空爆が始まったらしい。その殺戮劇をブロードバンドで世界中が見つめている。アメリカの自信。アメリカの底力。アメリカの傲慢さ。アメリカの苦悩。それを赤い炎がデジタルで表現している。
 科学技術は、世界を進歩させているのか。ネットで結ぶことは、地球を救うのか。デジタルは、人類をどこへ連れていくのか。

 これから私は日本に向かう。アメリカ滞在に一段落つけて、日本ベースの暮らしに戻る。
 デジタルの技術は、開発・提供の段階から、利用のフェーズに移った。どう作るか、から、どう使うか、へ。そこでは、科学者や職人の腕以上に、ユーザの感度や厳しさがモノを言う。それは、アメリカ発のITが、日本で再生産されるステージに身を寄せてきたということでもある。
 今は日本がどこよりもポップで面白いと思う。